聖書箇所 Ⅱテモテへの手紙3:15

 

3:1 終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。

3:2 そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、

3:3 情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、

3:4 裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、

3:5 見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。

 

「形だけの信仰にならないように気を付ける」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

冒頭の御言葉において、終わりの日は、ありとあらゆる冒涜が許されることについて預言されています。ちなみに25節は、この世の人だけでなく、クリスチャンのことも言われています。

 

3:2 そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、

 

クリスチャンと呼ばわれる人が・・・ことさらに自分を愛したり、お金を愛したり、また、大言壮語(KJV:自慢する)したり、不遜(KJV:高慢)であったり、神を冒涜したり、反抗的であったり、感謝をしなかったり、その結果、汚れた者になっていくということが書かれています。

 

3:3 情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、

 

そして、情け知らず(KJV:愛情が無い)で、和解しない者、そしる者(KJV:非難者)、節制のない者(KJV:抑制できない)、粗暴な者(KJV:荒々しい、獰猛な)、善を好まない者(KJC:良いことを見下す)となっていくことについて書かれています。そういったことをはじめ、結論として、5節のことが書かれているのですが、神のおきてについて、クリスチャンが否定することを言われています。一時が万事、神さまがおすすめしていることと、逆方向を歩んでいくクリスチャンが多くなるということについて、これらの箇所は語っています。そして、パウロは、そのような人々を避けなさい(KJV:拒否しなさい)と言われています。

 

もし、私たちが、そんな風になっていくのなら、天の御国は危なくなるのです。いくら毎週欠かさずに礼拝に行っていたとしても、あるいは奉仕を一生懸命行っていたとしても、25節のようなことを容認し続けていくときに、見えるところはともかく、実質は、滅びへと直行してしまうのです。こういうことは、一見、人目には分かりづらいことかも知れません。と、言うのは、口先ではいくらでも良いことが言えてしまうからです。でも、私たちの実態はどうなのか?本音はどうなのか?ということを、神さまは常にご覧になっています。

 

5節に語りかけがあります。「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」の箇所ですが、この部分は、KJVで見ると、「神のおきての形はある、しかし、それについて否定する」と書かれています。このことが言わんとしていることは、多くのクリスチャンは聖書を読むので、神のおきては知っています、しかし、知っているだけで実践しようとはしないということです。口で否定しているわけではないのです。良いおきてを学び、知ってはいるのです。ではあっても、行動には移さない、ゆえに、行いにおいては否定している、そのようなことを言われているのではないかと思います。なので、見えるところは敬虔なのです。しかし、実際のところはどうか?と、言うと、御言葉を否定しているのです。よく、こういう人がいます。「いやぁ、実に良い教えだった。いい話を聞けたなぁ」と。たしかに、未信者のように、はじめからキリストを拒否していたり、メッセージを聞かないよりかは、全然良いのですが、しかし、もし、そこでストップしてしまうなら、それ以上先に進むことはありません。礼拝さえ行っていれば、自分は十分クリスチャンとしての義務は果たしているとおっしゃるかも知れませんが、神さまの前にそれで良いのか?と、言うと、そうではないと思います。レムナントのメッセージでも言われていることですが、御言葉は行ってなんぼのものなのです。また、御言葉を行わないなら、神様を喜ばせることはできません。はたまた、敵に回す可能性ですらあるのです。それこそ、神のしもべのパウロが、「こういう人は避けない」と言われているように、そういう人とは、あまり関わらないほうが良いのです。KJVでは、「そのようなものは拒否しなさい」とありますが、たとえ、周囲のクリスチャンがそうであったとしても、それに倣ってはいけないのです。また、私たちは、そういう状況の中で、真の意味合いで御言葉を受け入れていかなければいけないのだということは、よくよく理解されておいたほうが良いと思います。前にも同じようなことを書きましたが、周りの人たちがあまりにも御言葉を尊重しないので、それが常識のようにさえ、思えてしまうかも知れません。しかし、同じようになっていくときに、同じ裁きに入ってしまうので、気をつけていきたいと思います。

 

ですので、繰り返すようですが、御言葉を単に知っているだけでなく、祈りの中で実践していきたいと思います。御言葉を知ること、それはそれで尊いことなのですが、そこで終わらせてしまうときに、25節に書かれていることが、悪い意味合いで成就してしまうので、気をつけていきたいと思います。言葉においても、行動においても、神さまのおきてを拒否することのないように、くれぐれも気をつけていきたいと思います。霊的にキリスト教会やクリスチャンを見るなら、残念ながら多くのクリスチャンがキリストの十字架を敵として歩んでいる時代なので、尚一層、そのようなことを念頭に置きつつ、恐れかしこんで神さまのおきてを守り、御心を行っていきたいと思います。ぜひ、こういうポイントに関しても、とらえておいていただきたいと思います。

 

本日の箇所は、決して他人事ではないと、思います。メッセージの中で書きましたように、こんなことを申し上げたら怒るかもしれませんが、正直、多くの人が十字架を敵としているなぁということは、霊においてひしひしと感じることが多いです。では、あっても、一歩間違えると、自分も十分に該当することなので、気をつけていきたいと思います。また、最近、レムナントの礼拝の中で、「どの時代も同じエパ枡、天秤によって裁かれる」という学びをしました。要は、いくら時代が悪いからと言って、ハンディが適用されるわけではなく、裁きの御座においては、どの時代の人も、御言葉に沿って平等に裁かれるということです。このことに関しては、数ヶ月前から個人的に預言でも示されていましたので、「やっぱり・・・」と、思いました。日々の信仰生活の中で、御言葉を拒否した歩みに入っていないか?を、御言葉と照らし合わせながら、正すべきところは、祈りによって成していきたいと思いました。本日も大切なことを語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。