聖書箇所 Ⅱテモテへの手紙4:2

 

4:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

 

「根気をもって真理を語る」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

「時が良くても悪くても、御言葉の種を蒔いていきなさい」ということは、レムナントの預言でも度々言われています。ちなみに、この言葉は、3節以降の御言葉にかかって言われていることです。

 

参照 Ⅱテモテへの手紙4:3,4

4:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、

4:4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

 

すごいことに、もう、すでにパウロの時代に、今の時代に成就している3,4節の言葉が預言されていたのです。2000年以上も前に、です。びっくりしませんか?「空想話にそれて行くような時代になるからです」という言い方から、パウロの時代はそうではない、しかし、将来、こんな時代になるぞ!と、いうことをこの箇所は語っているのです。

 

今、キリスト教会の間で言われている教理、すべてがすべてでないにしろ、繁栄思考やカウンセリング、艱難前携挙説、御言葉よりも法王が言うことが正しい、エキュメニカルの推進、神はどこまでも愛のお方なので人を地獄へと落とす方ではない等、どれもこれも、真理とは真逆のことばかりです。しかも、そのことが堂々とまかり通っているのです。なぜか?3節にあるように、人々が真理よりも、偽りを好んでいる時代だからです。それゆえに、「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」と言われているのです。そう、もう、多くの人がまともな教えを受け入れない時代にいることを前提に、このことを行っていかなければいけないのです。この世の未信者なら分かります。でも、このことはクリスチャンのことをも言っているのです。クリスチャンがクリスチャンらしからぬものに変質していくぞ、それでも真理に立つお一人一人は正しいことを伝えなさい!と、言っているのです。

 

普通、特にこの世の未信者から見ると、クリスチャンなら、喜んで真理を受けていそうに見えますよね。かつては、そうだったと思います。でも、今の終末の時代は、残念ながら大多数のクリスチャンがこの世の人とあまり変わりがなくなっています。信仰の告白をし、聖霊を受けながらも、なおかつ真理を受け入れないというのは、はっきり言いますが、ある意味、神様を全く知らない未信者よりもタチが悪いのです。が、しかし、語るべき真理を語っていかなければいけないのです。なぜか?たとえば、1,000人に語って、そのうちの999人がそっぽを向いたとしても、もしかすると、たった一人でも悔い改める可能性があるからです。ゆえに、私たちは聖霊にある忍耐を働かせて、根気をもって真理を語っていかなければいけないのです。それこそ、イエス様が、「だれかが100匹の羊を持っていて、そのうちの1匹が迷い出たらその人は99匹を山に残して迷った羊を探しに出かけないでしょうか?」とおっしゃっていたように、たとえ今の時代や多くのクリスチャンの道がどんなに曲がっていようとも、真理を求めてさまよっているクリスチャンがいるので、そういう人のために、真理を語り続けていかなければいけないのです。

 

「時が良くても悪くても」という言葉にポイントがあります。英語では、「シーズンオフ」とか「季節外れ」と訳されています。そう、多くの人が健全な教えは聞きたくない時代なのですから、たしかに季節外れではあります。ゆえに収穫もほとんど無いかも知れません。でも、神様に忍耐を求めて語り続けていくことに御心があることをぜひ、ご理解いただきたいと思います。

 

また、語っていく際に、はっきりと語っていくことにポイントがあります。「寛容を尽くし」のところは、英語だと、大分ニュアンスが違います。もちろん、別の聖書の箇所では、「もし、だれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは柔和な心でその人を正してあげなさい」とあるので、寛容な心で語ることも、もちろん大事だと思います。ただ、このところは、KJV訳では、「たしなめる」「とがめる」「非難する」「叱責する」「戒める」という言葉が使われているので、今のキリスト教会やクリスチャンにおいての問題点に関しては、はっきりと言わなければいけません。どこが悪いのか?について教えてもらった上で、真理を理解したり、受け入れたりするからです。たしかに、問題点を聞かされたら、ガツーンときて、すぐには受け入れられないかも知れませんが、後々になって、「やっぱり、正しい」と、思い直して悔い改める可能性もありますよね。私自身も、人から何か指摘されたりしたときに、いくら相手が正しいと思っても、なかなか素直に受け入れられないタイプですが、でも、時間が経って、また、言われた通りに変えてみたりしたときに、「ああ、やっぱり、言われたことは正しかったんだなぁ。もっと、早く聞いておけば良かったなぁ」と思うことがあります。そんな風に、人々の心境の変化というのも考慮しながら、寛容な心で、なおかつ、はっきりと真理を語っていくように、心がけていきたいと思います。繰り返しますが、たしかに、今は、多くのクリスチャンが真理からそれていっている時代ではあります。でも、「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」という御言葉にとどまって、寛容と忍耐を尽くして、根気をもって真理をひたすら語り続けていきたいと思います。

 

以前の私も、真理よりも偽りを好むタイプのクリスチャンだったので、何も偉そうなことを言える立場ではないのですが、エレミヤ部屋のHPのメッセージを読んで、心が刺され、悔い改めることにしました。なぜか?と、言うと、とても単純な理由で、真理から外れた歩みや働きでこの世の人生を終えるなら、たとえ、クリスチャンと称していても、「滅び」へと直結することを理解したからです。そして今では、逆に真理を語る働きの一端に携わるようになりました。まさに、かつての私のように、艱難前携挙説やクリスチャンは裁かれず皆天国といった嘘、偽りの教理を喜んで受け入れている人たちに対する警告の働きなので、人々からはあまり好まれません。それどころか、嫌がられることのほうが多いです。だからと言って、この働きをやめたい!と、思ったことは今まで一度もありません。なぜか?と、言うと、イエス様を信じる人が、誰も滅びて欲しくないからです。もちろん、自分自身も生きている間は常に途上の身ですので、天の御国をゲットしたわけではありませんが、自分も御国に入れるような歩みや働きをしつつ、人々にも、ぜひ、そうなって欲しいと祈りや願いをしながら、日々、そのことに一心に励んでいます。たしかに、真理は受け入れやすいか?と、言うと、そうではなく、どちらかと言えば、受け入れられづらいものばかりではありますが、自分自身も受け入れられるように祈り求め、ぜひ、多くの人にも受け入れていただきたいと思っています。そんな思いや願いの中で、これからもイエス様と一緒に真理を伝えていく働きに勤しんでいけるといいなぁと思います。今日も大切なことを語ってくださった神様に栄光と誉れがありますように。