聖書箇所 Ⅱペテロの手紙1:10

 

1:10 ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。

 

「つまずき」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

冒頭のみことばで、「つまずく」ということばが使われています。以前エレミヤ牧師が言われていたことですが、「つまずき」とは、キリスト教用語です。もちろんこの世でも全く使われないわけではありません。たとえば、まだ幼いお子さんが歩く練習をする時とかに親御さんは、「○○君、この道は砂利道だから、大きな石につまずくことがないように気をつけて歩くんだよ」なんていう風に使うことはあります。ただ、聖書では、「つまずく」ということばは、今の話のように、単に外側の面だけでなく、私たちの内面的な側面についても言われていて、むしろそういったことに使われているケースが多いことが分かります。そんな概念で本日の箇所を学んでいきたいと思います。

 

「ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。」とペテロが言っているように、もし、私たちが主の召しに応答して歩みをし、働きをしていくのなら、そのあとのことば、「つまずくことなど決してありません。」が約束されているのです。「熱心に」のところは、KJV訳では「勤勉」とあります。要は、主の言われていることに、ただただ一直線に進んでいくのなら、「つまずくことはない」と、そんなことを言われているのです。ちなみに「つまずく」のところは、KJV訳で、“fall”(落ちる)ということばが使われています。「つまずかない」とは、「信仰から落ちることはありませんよ」ということを言われているのです。もっと言うなら、「祝福や恵みからもれることなく、得るべき永遠の命をゲットできますよ」というニュアンスがあるのでは?と、思います。イエスさまも、「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです」と言われています。ですから、もし、私たちがつまずくことなく、最後まで真理の光の中を歩み続けるのなら、幸い、すなわち天の御国に入れるのです。ちなみに、「わたしにつまずかない」とは、「イエスさま」である「みことば」につまずかないという意味合いです。心からそのことを祈り求め、実践していくときに、勝利に勝利を重ね、その延長線上において、永遠の命が約束されているのです。

 

さて、上記は「つまずき」についての「祝福」の面について語りましたが、聖書ではそれに関して、「呪い」や「災い」に関しても語っていますので、その面についても話したいと思います。

 

さっきも話しましたが、「つまずく」ということばは、教会やクリスチャンの間、つまり聖書で頻繁に出てくることばです。裏返せば、それだけ神さまが重要視している事柄なのでは?と思います。さきほどは、みことばにつまずかないときに幸いや祝福に入るという事柄を述べましたが、今度は「人」につまずくという視点から話したいと思います。

 

参照 ルカの福音書17:1

17:1 イエスは弟子たちにこう言われた。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。

 

「つまずきが起こるのは避けられない」と書かれています。これは何を言っているのかと言うと、そのあとに続いて書かれていることばを読むと分かるのですが、対人(たいひと)のことを指しているのです。「つまずきを起こさせる者は、忌まわしいもの」と言われているように、「つまずきが起こる」という現象は、一人では起きないということです。必ず、「人」が絡んで起きてくるものなのです。たしかに「つまずき」はある、しかし、「つまずき」を起こす者は「忌まわしいもの」なのです。クリスチャンになって、信仰を持って、それですべてハッピーエンドかと言うとそうではなく、かえって信仰を持つようになって、「人につまずいた」なんて経験をしたことはないでしょうか?お心当たりがないなら、それは本当に幸いだと思います。でも、私個人は、何度も「つまずき」を経験しましたし、今でも、「つまずく」ことはあります。また、私自身も人をつまずかせてしまったこともあります。それもクリスチャンになってからということのほうが多かったのでは?と思います。そう、「クリスチャンのくせに、あの人は??」なんて思われたり、言われたりしたことが何度となくあります。もちろん同胞のクリスチャンは遠慮してなのか、あまり言わないのですが、未信者の人は、そのあたりは遠慮なく言ってきます。身内のみならず、他人に指摘されたこともあります。でも、今となっては、自分自身を変えていく良い機会ともなり、後において益になったことが多かったので、そういった体験をさせていただけたことは良かったと思います。もちろん聖書に書かれているように、「つまずき」を起こすのは良くないことなので、気をつけていきたいと思います。でも、そんな風にはっきり言われなかったら、さらに多くの人をつまずかせてしまったでしょうし、気を付けようなんていう風には思わなかったので、本当に良かったです。そして今でも人のことをつまずかせてしまうことは多々あるのでは?と思っているので、日常のお祈りの中で、「人をつまずかせることがありませんように。もし、そういうことがありましたら、すぐに教えてください。そして直ちに悔い改めていくことができますように」という風にお祈りしています。私のつたない証はこんな感じなのですが・・・申し上げたいことは、人をつまずかせてしまうときに、その人に不信感を抱かせたり、はたまた、「あの人がクリスチャン?だったら、私クリスチャンにはなりたくない!」とそんな風に他の人に悪い意味合いで影響を及ぼしてしまいますので、くれぐれも気を付けていきたいと思います。また、未信者の人たちだけでなく、同胞と言われるクリスチャンからも疑問を持たせてしまったり、歩みを妨害してしまったりする可能性がありますので、細心の注意を払っていきたいと思います。「つまずきは避けられない」と書かれているので、ある意味お互いさまと言えば、それまでなのですが、でも、「つまずきを起こす者は忌まわしい」という面においても、きちんと向き合っていかなければいけないと思います。そして人に「つまずき」をもたらし続けているならどうなってしまうのか?と言うと、ルカの福音書172「この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」のみことばが成就してしまうのです。「そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがまし」と言われているように、人に「つまずき」を与えるときに、災いを招いてしまいますので、気を付けていきたいと思います。

 

そしてもう一面の「つまずきが起こるのは避けられない」とあるように、「つまずき」に会うというのは一面の真理であるということもとらえて歩んでいきたいと思います。人間的には全くつまずくことがないのが理想なのかも知れませんが、でも、聖書ではハッキリと「避けられない」とありますので、これはクリスチャン生涯において起きてくるんだなぁという風に理解して歩んでいく必要があるのでは?と思います。その時にポイントとなるのは、はじめに述べたように、みことばにつまずかない、要するに真理の中を歩み続けていくことです。人を通してつまずきがもたらされたとしても、天地が過ぎ行くとも、しかし、変わらない「神のことば」に目を留めて歩んでいくことに大いにポイントがあるのです。さらに繰り返すなら、冒頭のみことばにあるように、ひたすら神に仕えていくことに熱心になる、勤勉になる、そうするなら多少のつまずきがあっても、ほとんど気にならないでしょうし、そういったことに対しても正しく対処できたり、主の時に勝利が得られるのでは?と思います。「つまずき」ということに関して、神さまがこんなことを語っているかなぁ?と思いましたので、メッセージをさせていただきました。よろしければこういうポイントに関しても、ぜひ見ていただけたらと思います。