聖書箇所 ヘブル人への手紙2:1



 



2:1 ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。



 



「救いを確かなものにする」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。



 



私たちが未信者のときに、イエス様を救い主として信じて心に受け入れてご自分の主としていくときに、救いが成立します。そして、このこと、クリスチャンとして新生することは、神様の前にとても尊いことでもあります。つい、昨日まで神様を知らなかった人がイエス様と出会って、その感動や感謝のあまり、信じてみようかなぁ、受け入れてみようかなぁ、クリスチャンとして歩んでみようかなぁと、そんな風に内側が変えられるからです。なので、ぜひ、その時の感動や感謝の思いを決して忘れることなく、絶えずイエス様を心の中心に置いて、イエス様を仰ぎ見て、これからも歩んでいきたいと思います。



 



それはそれとして、パウロはヘブルの人たちに、「押し流されないようにしなければなりません」と、語っています。ヘブルの人たちは、すでに救われてクリスチャンになっている人たちだと思うのですが、こんな風にあえて語られていることに目を留めていきたいと思います。



 



「押し流されないようにしなければなりません」のところはKJV訳では、「外れる、落ちる、すべる」と書いてあります。こんな言葉を耳にしてどうでしょうか?なんか不吉なことばに聞こえませんか?特に過去、自分が受験のシーズンにこういったことばを耳にすると、なんだか、いやーな気持ちになったり、不安になったりした記憶があります。たとえば誰かが、この間、スキーに行ってどこどこの山を滑ってきたのよねぇ、なんてことを何の気なしに話していてそのことばを使うのですが、当の本人にとってはそのことばが気になって、ことさらに反応したりしますよね。その時は本人にとって深刻なことなので、たしかにそうなのだと思います。でも、長い一生、あるいは永遠のスパン、いえいえ、聖書の視点から見ると、もし、仮に受験に失敗したとしても・・・それはそれでショックなことではありますが、しかし、なんとかやり直しがききます。失敗したからといって命にかかわるか?と、言うと、そうではありません。そのようなことと比較して良いかどうかは分りませんが、ただ、「永遠の命」に関しては、100%、失敗が許されないのだということを、今一度、私たちは思い起こす必要があるのはたしかです。なぜなら落ちる人、すべる人がいるからです。こんなことを言っている私も、その一人になってしまう可能性は重々あります。と、言うのは、パウロ自身も、すでにとらえたのでもなく、得たのでもなく、ひたすら得ようとしているだけであるとか、人に伝えておきながら自分が失格者とならないようにしなければならないなんてことを言われているからです。ゆえに、「押し流されないように」、要は、救いから外されてしまうことがないように気をつけなさいということを前もって語っているのだと思います。



 



また、「ますますしっかり」のところは、KJV訳では、「真剣に」とあります。「救い」に関して、絶えず真剣になりなさい、つまり、永遠の命を得ることに真剣に向き合い、必死になっていきなさいということを言われているのです。昨今、キリスト教会やクリスチャンの間で、天の御国に入るのなんて楽勝!なんていう風潮がありますが、この箇所を読むかぎり、そうではないと思います。当時の私もそんな風に思っていました。一度救われてしまえばエスカレーター式に御国を相続できるものだと。なので、救いや御国の相続に関して、軽く捉えていました。でも、ここの箇所でもそうですし、さっきも言いましたようにパウロですら、すでに得たわけでもないと言っているのですから、まじめにこのことに向き合っていく必要があるのでは?と、思います。



 



ちなみに、エスカレーター式ということに関連して、こんな例が参考になるか分かりませんが、私は某大学の付属高校に入学しました。合格通知をいただいたときに、「付属なんだから、もう、これで入試とは関係が無い!ヤッター!」と、有頂天になっていました。ところが入学式に出席してみると、校長が意外なことをおっしゃっていました。「皆さん、入学おめでとうございます。当校はたしかに大学付属の高校です。しかし、エスカレーター式に進学できる学校ではないことをご理解ください。外部から大学へ入る人と同様、試験がありますので怠けることなく、ぜひ、頑張ってください」とのことでした。その言葉を聞いて、ガックリと肩を落としました。「なんだぁ、もう、受験勉強とは関係の無い高校生活を送れると思ったのに!」と。口に出しては言わないまでも、残念!ガッカリ!でした。私だけでなく、周囲の人もみな、同じようなことを思ったみたいです。中には、「初日から学校をやめたい」と、そんな風に思った人もいたそうです。でも、それが学校の方針なので、聞き従うしかなかったわけで・・・なので、私もそうですが、大半の生徒がみな、必死に勉強をして、なんとか無事に進学することができました。こんなことと比較して良いかどうか分かりませんが、クリスチャンが最終ゴールである天の御国に関しても、同じようなことを感じました。それこそ私もクリスチャンになったのなら、天の御国に入るのはエスカレーター式だと思っていましたので、エレミヤの部屋のHPのメッセージを通して、そうではないことを知ったときに、とてもショックを受けました。でも、聖書には天の御国について、「狭い門、細い道」と書かれていますし、艱難の前にクリスチャンが挙げられている記述なんてどこにも見当たりませんし、しかし、神様が、聖書が語っていることが正しいことなので、私たちの側でそのことに合わせていくしかない!という結論に至りました。世の中の学校に入るためにも、それに見合うように勉強をして、試験に合格しなければいけませんが、天の御国に関しても、神様が語っている基準にどこまでも則していかなければ入れないのでは?と思います。



 



話は少しそれましたが、「私たちは聞いたことをますますしっかりと心に留めて」と書かれていますように、天の御国にゴールするためには、聞いた御教えを真剣に受け止めて、歩んでいくことにポイントがあるのです。まずは教えを受けて、その次のステップとしてきちんと心に留めていきたいと思います。そのことを最後まで実践し続けていくときに、押し流されずに、そう、すべったり落ちたりすることなく、救いを達成できるということ、クリスチャンの約束の地である天の御国を相続することを、この箇所は語っているのです。



 



また、残念ながら、終末は多くのクリスチャンが救いから外れていく時代であることを、聖書の至る箇所において語られています。たとえば空想話(Ex:クリスチャンは艱難を通らずに携挙される)にそれていくなんてことは、その一例です。また、イエスの名以外にも救いがあるというのも、そうです。仏教徒でもヒンズー教徒でも救われる、死ぬまでそれをヒンズー教徒のままでも救われるなんていう教えは、キリストの救いの根幹を否定するものです。これらは氷山の一角のことに過ぎませんが・・・こういったものに引っ張られていくときに、救い、つまり永遠の命が危なくなりますので、くれぐれも気をつけていきたいと思います。今の時代は、教理的にも、霊的な側面においても、そういった騙しごとや、まやかしの教えが平然とまかり通っている時代です。また、そのことを神様は、ある意味、より分けのために許されてはいますが、聖書が語っている救いと、全く別のものを掴んでしまって救いから外されてしまうことがないように気をつけていきたいと思います。そのような罠に入ることのないように、いつも申し上げていますように、絶えず御霊によって祈り、御言葉をきちんと読んでいきたいと思います。



 



メッセージに関連して



最近、コロサイ人の手紙を通して「割礼」のことを教えていただきました。聖書で言う「割礼」とは、「肉」つまり、「罪」を切り離すという意味合いです。「罪」とは、単に、ものを盗んだり、人を殺したりというだけではなく、どんなに良いものであっても、生まれつきのものは、「罪」なのです。もっと言うなら、もともとの人間的なものは、みな、神様の前に「罪」だという風に理解しました。極端なことを言うと、文学や音楽やスポーツ等の才能も、そうです。(誤解の無いように、一言申し上げておきますが、別にそれ自体が悪いものだと言っているのではありません。ただ、もし、それらのものを主イエス・キリストのこと以上に誇ったり、ことさらに固執したりするのなら、罪になります)それで私たちクリスチャンに、「割礼」を受けることを聖書ではおすすめしているのです。肉、罪、つまり、もともとの性質から祈りによって、どんどん切り離されていくのです。かつての自分もそうでしたが、多くのクリスチャンは、「割礼」を受けることの重要性に関しての理解はかなり希薄なのでは?と、思います。ただ、御言葉にははっきりと、「割礼の無い者は、神の民から断たれる」ということが書かれていて、つまり、もし、「割礼」を受けないでクリスチャン生活を終わらせるなら、クリスチャンの約束の地である天の御国に入れない可能性が大いにあるのです。なので、このことも、祈りの中でちゃんと実践していかなければいけない!と、思いました。それこそ本日の御言葉ではありませんが・・・礼拝のメッセージの中で聞いたことですので、なおかつ聖書からの正しい教えだと思いましたので、このことも心に深く刻み、御言葉にとどまっていきたいと思いました。いつも大切なことを語ってくださる神様に栄光と誉れがありますように。