聖書箇所 ヘブル人への手紙3:46



 



3:4 家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。



3:5 モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。



3:6 しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。



 



「キリストによって建て上げられる」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。



 



いつも申し上げていますように、聖書には、多くのたとえが使われています。そして冒頭の御言葉の、「家」は、教会やクリスチャンのたとえです。「家はそれぞれ、だれかが建てる」の言葉ですが、「キリストは御子として神の家を忠実に治められる」とありますように、教会や個々のクリスチャンを建て上げるのは、イエス・キリストです。そのことについては、他の箇所でも同じようなことが言われています。



 



参照 Ⅰコリント人への手紙3:10,11



3:10 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。



3:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです



 



上記御言葉からも、教会、クリスチャンの土台となるのは、どこまでもキリストだということがお分かりになるでしょう。さて、建前はたしかにそうなのですが、実際はどうなのか?と、言うと・・・失礼ながらキリストを土台としている教会やクリスチャンは霊的な目で見るなら、めっきり減ってきたように思います。目に見えるところでは、「イエス様が一番よね」とか「神様に感謝!」という感じで一見、なんら問題はなさそうです。しかし、実際のところはどうなのか?と、言うと、多くの教会やクリスチャンが御言葉を逸脱しているように思います。



 



一例を挙げるなら、恵みや祝福は語るけれども、裁きに関しては、ほぼ言わない、あるいは全く言わないメッセージが多いと思います。もちろん人間的には、そういうメッセージは非常に喜ばしいことですし、受け入れられやすいものではあります。しかし、イエス様はこのように言わなかったでしょうか?「公義(裁き)をなおざりにしている!」と。この言葉は当時のパリサイ人、律法学者に向かって言われたことですが、今のキリスト教会の牧師や教師にも大いに該当するのでは?と、思います。裁きに関して口を閉ざすのは、神の前にNGなのです。裁きについて言わないことがいくら人間的に美徳のように思えても、神様の前には偽善者と見なされてしまうのです。また、はじめに申し上げましたように、聖書には多くのたとえが使われています。それに関して、「イエスはたとえによらないで話されることはなかった」ということが書いているのですが、「聖書は文字通り読むべき。霊的に解釈すべきではない」と言って、たとえを理解することをなおざりにしています。その他にも挙げ出したらキリがありません。艱難前携挙説、エキュメニカル推進、パーパス・ドリブン・チャーチ、地獄は無い、クリスチャンは裁かれない等、どれもこれも聖書の言葉とは相反するものばかりが教会やクリスチャンの間にどんどん入り込んできています。しかも悲しいことに、ほとんどのものが吟味無しに受け入れられています。



 



何を申し上げたいのか?と、言うと、御言葉であるキリストの言うことにことごとく反発していくときに、「家」、すなわち教会やクリスチャンの建て上げはおぼつかないものになってしまうのです。目に見える形としての会堂、礼拝はたしかに存在します。ただし、御言葉に反することばかりしている教会やクリスチャンに聖霊の働きがあるか?と、言うと、まったくとは言いませんが、恐らく、ほぼ、無いと思います。そうすると、どうでしょうか?キリストが建てたものではない教会やクリスチャンが実在する、ということになります。冷静に考えてみると、これって怖いことだと思います。キリストが建てたのではないのなら、いったい誰が建てたのか?あるいは、そこには誰がいるのか?少し頭をひねればわかると思うのですが、サタンがキリストの座を占めている可能性があるのです。「変なことを言うな!うちの教会はいつも、みんなでイエス様に感謝しているんだぞ!!」と、おっしゃるかもしれません。もちろん神に感謝を捧げることは素晴らしいことです。ですからどうぞ、それはぜひ、継続されてください。でも、本当に心からイエス様を愛して感謝しているのでしたら、御言葉が語っていることに従うのではないでしょうか?知らなかったことならともかく、御言葉を通して警告を受けたら、そのことに耳を傾けないでしょうか?あるいは応答しようとしていくのではないでしょうか?もし、実践していくのでしたら、あるいはすでに実践されているのでしたら、大いに恵みや祝福を受けます。イエス様によって建て上げられていきます。しかし、反対にそうでないのなら、残念ながらイエス様ではない、つまりサタンの支配下に置かれている可能性がありますので、気をつけていきたいと思います。そこからは早いうちに脱していきたいと思います。それほど難しいことではありません。要は、聖書で言われている御言葉に則していけばよいのです。御言葉が艱難を通ると言っているのなら、そのための備えをしていけばよいのです。また、裁きについても語りなさいと言っているのなら、そのことも導きや示しの中でおこなっていけばよいのです。あるいは群衆の歩みにはポイントが無いと言われているのなら、弟子として歩んでいくようにすればよいのです。御言葉が語っていることを信じて、祈りの中で実践していくのなら、キリストによって建て上げられていくのです。



 



たとえば小学校の授業で、その日はみんなでプラモデルを作ることにしました。それぞれの子どもがなんとか完成させようとして頑張っています。その時にある子どもは説明書を読んで、その通りに作ったのできちんと完成させることができました。でも、別の子どもは説明書をまったく無視して進めていったので、思うように完成することができませんでした。



 



教会やクリスチャンの建て上げも、このことに準じるのではないかと思います。クリスチャンが天の御国に入るための唯一のガイドは聖書の御言葉です。御言葉の通りに歩みを進めていくなら、入るべきところに着々と近付いていきます。しかし、あれもこれもと、どの御言葉も無視するなら、まったく別の方向へ向かってしまいます。プラモデルは失敗しても再びチャンスがありますが、天の御国に入ることに関しては聖書を読むかぎり、再チャンスは無いようですので、くれぐれも気をつけていきたいと思います。ぜひ、御言葉であるキリストによって建て上げられて、御国を受け継ぐ者となっていきたいと思います。



 





以前、群衆として歩みをしていた頃は、本日の御言葉に関して全く考えたことが無かったのですが、こんな風におよばずながらも弟子として歩むようになってから、とても大事なことを語っているなぁと思いました。かつては自分自身もサタンを土台として歩んでいたクリスチャンだったので、何も偉そうなことは言えないのですが、今、振り返ってみると、そのことにすら気付かなかったので恐ろしいことだなぁと改めて思いました。その頃は艱難前携挙説ことも推進していましたし、時として福音を人様に伝える機会があっても裁きのことについて、ほとんど語ったことはありませんでした。たまに、「信じないと、地獄に行く」なんてことを未信者の人に言ったことはありましたが、「でも、クリスチャンになれば、みな天国へ行ける。単にキリストを信じて受け入れるだけで、天国に行けるんだから信じたほうがいい」と、言っていました。たしかに救いは信じるだけで、恵みによって救われるのですが、でも、それだけで終わって良いか?と言うと、そうではないことが聖書では言われています。聖書には神様の愛や赦しに関しても語られていますが、反面、裁きに関しての記述も多く、むしろ裁き、つまり呪いに関してのことが大半なので、こちらに比重を置きながら人々に伝えていかなければいけないのだなぁということに目が開かれるようになりました。本日の御言葉とは少しはずれた証になってしまいましたが、キリストを土台とする歩みとは、そのようなことを言われているのでは?と思います。本日も大事なポイントについて語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。