聖書箇所 ヘブル人への手紙4:2



 



4:2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。



 



「御言葉に結びつく」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。



 



冒頭の御言葉は、その前の節の御言葉にかかって語られていることです。



 



参照 へブル人への手紙4:1



4:1 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。



 



ここでは、「安息」、つまりクリスチャンの最終ゴールである天の御国に入れないクリスチャンが出てくるということについて言われています。そして、どういう人が脱落してしまうのか?の答えが、2節に書かれています。「みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかった」クリスチャンが、安息、すなわち天の御国に入れないのです。



 



「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです」と、書かれているように、クリスチャンは同じ聖書を持っています。ある人の聖書は10巻しかない、ある人の聖書は100巻もあると、そういうことはないですよね。みな、等しく66巻から成る聖書を読んでいるはずです。これについては、みな、平等です。そこには、ありとあらゆる記述があります。律法、戒め、神の愛、さばきなど。では、あっても、同じ聖書を持ち、読んでいたとしても、ある人は聖書に書かれていることと実態が結ばれていきます。しかし、同じように聖書を読んでいても、聖書の御言葉とは無縁のクリスチャン生活を送る人もいます。じつは、これって、すごい差なんです!天と地との差、それこそ安息、つまり、御国に入るか?入らないか?という、えらい差になってしまうんです。



 



「みことば~信仰によって、結び付けられなかった」という言葉に関して、少し見てみたいと思います。「みことば」とは、ヨハネの福音書のはじめに、「ことばは神であった」と書かれているように、イエス・キリストのことを言われています。つまり、「みことば~信仰によって、結び付けられなかった」とは、イエス・キリストと結ばれていない、もっというなら、キリストとは関係の無い信仰生活を送っているクリスチャンのことを言われているのです。「そんな馬鹿な!イエス・キリストを救い主として受け入れて信じているんだぞ!毎週礼拝にも行っているし、聖書も読んでいるし祈りもしている!おかしなことを言うな!心外だぞ!!」と、おっしゃるかもしれません。もし、本当に御言葉を尊重し、キリストとつながって歩んでおられるなら問題はありません。ぜひ、そのような歩みを継続されてください。ただ、このように聖書が書かれているので、もう少し、考えてみたいと思います。「結びつけられなかった」ということばで、「結ぶ」ということばについて、一箇所御言葉を参照してみたいと思います。



 



参照 ヨハネの福音書15:110



15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。



15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。



15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。



15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。



15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。



15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。



15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。



15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。



15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。



15:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。



 



4,5節のところに目を留めていただきたいのですが、私たちがイエス・キリストにとどまるときに、多くの実を結ばせます。「イエス・キリストにとどまる」とは、御言葉にとどまることを言われています。ここでもヘブル人への手紙「御言葉に結びつく」ということを言われているのです。もし、御言葉にとどまるなら、多くの実、具体的には、御霊の実を次々と結ばせていくようになるのです。「御言葉にとどまる」とは、何を言っているのか?と、言うと、10節の言葉「わたしの戒めを守る」とあるように、神様の戒めを守ることです。「みことばが~信仰と結び付けられなかった」と書かれているように、同じ聖書を読んで、一方では御言葉を守るクリスチャンいる、しかし、その一方では守らないクリスチャンがいることが理解できますよね。そして神様の戒めを守るときに、私たちはキリストと結ばれるのです。もっと言うなら、キリストと一体になっていくのです。もし、地上で生きながらえている間、そのように歩んでいくのなら、後の世においてキリストの花嫁として迎えられていきます。でも、反対に、戒めを守らないなら、ヨハネの福音書2節と6節の御言葉が、悪い意味合いで成就してしまうのです。「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き」とか「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます」と、書かれている通りです。つまり、キリストとは無縁の者になっていくということを言われているのです。そして当然のことですが、キリストとは関係が無いのなら、当然、キリストの花嫁にはなれませんよね。「投げ捨てられて」「火に投げ込む」「取り除き」「燃えてしまいます」という御言葉は、まさに、そのことを証していると思います。「燃えてしまいます」「火に投げ込む」とのことばですが、このことは、「火の池のさばき」に通じるのでは?と、思います。ですから私たちが思っている以上に、「御言葉に結びつく」ことは、とても大事なことなのです。今、キリスト教会では、クリスチャンは、みな、天国へ行くという教えが大手を振っている時代なので、こういうことは受け入れがたいことかも知れませんが、御言葉を読んでいるクリスチャンにおいて、死後、2つの運命があることは、正しくとらえておきたいと思います。そしてぜひ、御言葉に結びついた歩みを心がけていきたいと思います。



 



では、最後に、「御言葉に結びついた歩み」をするにはどうすればよいのか?について、話したいと思います。先に見ましたヨハネの福音書の8節に、その答えが書かれているように思います。「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」と、ありますように、キリストの弟子として歩んでいくことにポイントがあります。旧約では、弟子のことを「レビ」と言っていますが、「レビ」とは、くっつくという意味合いです。つまりキリストにどこまでもくっついた歩み、もっと言うなら、御言葉から離れない歩みをする人が、キリストの弟子なのです。具体的にはいつも申し上げているように、祈りと聖書の御言葉に触れていくことです。その上で、御言葉を実践していくことです。言うまでもありませんが、御言葉を実践していくことにおいて、もちろん祈り&忍耐は必須です。もし、このようなことを日々、地道に積み上げていくのなら、自ずと御言葉に結びついた歩みをしていくようになります。結果としてキリストにくっついた歩みという風に、神様から見なしていただけるようになります。別にあえて弟子として歩む必要なんてないのでは?群衆の歩みでも十分なのでは?とは、多くの人が思われることかもしれませんが(じつは、私もかつてはそのように思っていた一人です)、このことにおいても、天と地ほどの差があります。はっきり言いますが、群衆にとどまっている時には、その区分は理解できません。御言葉の理解や浸透度に関して、まったく違います。たしかに知性においては理解ができますが、霊においては厳しいと思います。また、イエス様御自身が、群衆には御国の奥義を知ることが許されていないと、ハッキリとおっしゃっていますので、そのあたりは、どうぞご理解いただきたいと思います。そうなんです、弟子として歩みだして、はじめて理解することが多いのはたしかです。それは私自身が実際に歩みをして、体験したことだから、そう言えるのです。群衆で十分、余計なお世話だ!と、いう方にはあえておすすめするつもりはありませんが、ただ、御言葉の理解に関して限界がある、ということは覚えておいてください。また、御言葉の奥義を悟らないときに、御言葉はとどまるのは無理があるのでは?と、私自身は示されています。もちろんある程度は可能かも知れませんが、やはりどこかで限界を迎えるのでは?と、思います。むろん個々の人の、それぞれの判断ではありますが・・・もし、主から、ほんのわずかでも、志を与えられたのでしたら、ぜひ、弟子として歩みをしていきましょう。そして、御言葉にとどまって、約束の地、天の御国を目指していきたいと思います。



 





ここ最近、礼拝のメッセージを通して、同じ御言葉を聞いて、2つの反応があることを教えていただきました。要は、多くのクリスチャンは御言葉から警告を受ける、しかし、聞く人とそうでない人がいるということです。そしてそれによって、後の世に裁く側に立つのか?それとも裁かれる側になるのか?について、教えていただきました。そのメッセージを聞いて、たしかにそうだよなぁ、神様が愛をもって語っている警告に耳を傾けるかどうかは天地ほどの差があるよなぁと、思いました。本日の御言葉においても、それと同じようなことを語っているのでは?と、このようにタイピングをしながら、ふと、そんなことが頭をよぎりました。聖書に書かれていなかったり、聞いていなかったのならともかく、聖書に書かれていることや聞いたことに関して、裁きの座においては一切弁解の余地が無いようなので、きちんと応答していけるように祈り求めていきたいと思います。本日も大切なことを語ってくださった神様に栄光と誉れがありますように。