聖書箇所 ヘブル人への手紙5:11



 



5:11 この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。



5:12 あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。



5:13 まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。



5:14 しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。



 



「子どもクリスチャンから大人クリスチャンへ」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。



 



順にみていきます。



 



5:11 この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。



 



「この方」とは、イエス・キリストのことです。この章のはじめから読むと分かるのですが、パウロはたとえの説き明かしをしながら、イエス・キリストのことについて話をしていました。その流れの中で、11節のことを言われているのです。「あなたがたの耳が鈍くなっている」とは、ヘブルの信者の人たちに対して言われていることばです。そしてこのことばは、パウロの時だけでなく、今の時代を生きるクリスチャンに対しても同じことが言えるのではないか?と、思います。この時パウロは、まだまだ話したいことはある、けれどもあなたがたに聞く力が無い、ゆえに話すのが難しいということを言われているのです。同じようなことをイエス様も言われています。



 



参照 マルコ4:33



4:33 イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。



 



「彼らの聞く力に応じて」とありますように、理解できる範囲で、もっと言うなら、消化できる範囲内で、イエス様は福音を話したのです。このことをどう思われますか?以前、群衆の歩みをしていた頃は、特に深く考えたことは無かったのですが、もし、強いて言うなら、「イエス様って、優しいお方!その人の状況に合わせて語ってくださる配慮あるお方なのねぇ。」と、そんな風に感じたと思います。たしかに主は、私たちに対して事細かに配慮してくださるお方です。でも、少し考えてみていただきたいのです。わざわざ「彼らの聞く力に応じて」という風に言われているのは、単にイエス様の配慮だけのことを言われているのではなく、本当はもっと話したいことはある、しかし、理解する力が無いので、残念ながらそれ以上先にいくことはできない、ということも言われているのでは?と、思うのですが、いかがでしょうか?たとえば、日本語が少ししか聞くことも話すこともできない外国の人に道を訪ねられたときに、「そこを右折して、直進して、左折してください」という言い回しはしませんよね。ごく、簡単なことばで、「右(みぎ)」とか「まっすぐ」とか「左(ひだり)」とか、そういう表現を使いますよね。そんな例が良いかどうかは分かりませんが、イエス様も私たちに対して同じような対応をされるのだと思います。聞く力、つまり御言葉を消化できる力をどれくらい持ち合わせているか?によって、語ってくださる範囲が変わってくるのです。もし、本当にそうだとしたら、私たちが主の基準に合わせていくようにしていきたいと思います。



 



主はさらに何を話したかったのか?と、言うと、「御国の奥義」に関して話をしたかったのです。そのあたりのことに関しては、福音書を読むと詳しく書いてあるのですが、弟子たちにはたとえの解き明かしをしたり、御国の奥義について話をされていたのです。「奥義」ということに関して、イエス様は弟子たちに対して、「あなたがたには御国の奥義を知ることが許されているが、彼ら(群衆)には許されていません。」ということを述べています。さらに、続いて、「彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです」と言われています。少し辛らつな言い方で恐縮なのですが、群衆の歩みにとどまっている時に、残念ながら主が本来語ろうとされている「奥義」の部分に関して精通するのは難しい、いや、この御言葉から推測するに、不可なのです。ゆえに表面の部分しか語れないと、主はそのように言われているのです。再びヘブル書のほうに戻りますが、パウロも、イエス様と全く同じことを言われているのでは?と、思います。もし、私たちが本当に御言葉の奥義について聞こうと求めるのなら、あるいは理解しようとするのなら、ぜひ、弟子の歩みをおすすめします。



 



5:12 あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。



5:13 まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。



5:14 しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。



 



クリスチャンとして新生して、随分時を経ているにもかかわらず、いつまでも乳飲み子ではマズイぞ!!と、いうことをこれらの箇所は語っています。これらの箇所で、クリスチャンと言っても、幼子、乳飲み子と言われる、いわば「子どもクリスチャン」と、堅い食物を食する「おとなクリスチャン」がいることが理解できます。どちらが良いか?なんてことは言うまでもなく、当然、「おとなクリスチャン」ですよね。人間的に見れば、信者になって10年経つなんて聞くと、ベテランのクリスチャンだと思うでしょう。もちろんそういうクリスチャンも多数おられます。しかし問題は、何年、何十年経っても、新生した頃と何ら変わらない、もっと言うと、成長しない人がいます。そんなことを言うと、「洗礼を受けてクリスチャンになって、毎週礼拝にも行っているんだから十分でしょ!」なんて、声が聞こえてきそうですけど・・・人の前では、ある程度、そういうことは通じるかもしれません。でも、神様の前にはどうか?と、言うと、問題なのです。なぜか?14節の御言葉にありますように、いつになっても義の教えに通じないからです。



 



たしかに聖書には、「幼子」でいることについて書かれています。「幼子のようでなければ御国に入れない」と、そんなことまで書かれているように、私たちが主の前に幼子のようになっていることは大事なことです。でも、他の箇所では、「物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。」と、あります。つまり、聖書で奨励している「幼子」というのは、どこまでもキリスト、つまり御言葉に従順になっていくということであって、ただ、反面、「義の教え」に通じるためには、おとなになっていかなければいけないのです。



 



少し考えてみてください。たとえば子どもの頃は、何が良くて、そうでないのかについて、区別ができなかったと思います。でも、親御さんをはじめ、幼稚園の先生や学校の先生が教えてくださることを通して、あるいは色々な経験を通して、だんだんと良いものと悪いものの判断ができるようになっていきますよね。そういった積み重ねの中で、子どもから大人へと成長していきますよね。でも、もし、そういう教えを受けなかったり、経験をしなかったりしなかったら・・・良いものとそうでないものの区別を身に付けるのは難しいですよね。そして区別が出来ずに大人になるなら、たとえ体は成長しても、子どもの時と変わらないということになってしまいますよね。そうすると、たとえば社会に出るようになって、色々と支障をきたしてしまいますよね。



 



クリスチャン生活や歩みに関しても、同じことが言えるのでは?と、思います。「乳」とは、聖書の初歩の教えのことを指します。そして初歩のことにいつまでも留まり続けていくときに、残念ながら霊的な成長は望めないのです。これから先、何年、何十年と歩みをしても、いつまでも子どもクリスチャンです。「子どもクリスチャンでも、構わない」という方には、大人クリスチャンになることを強いておすすめはしませんが、ただし、奥義を理解するか否かという面において、悪い意味合いで主から選り分けられてしまう可能性があるということは、一言申し上げておきます。でも、そこから一歩抜け出して、堅い食物、すなわちたとえの意味合いや御言葉の奥義を理解することについて目を向けていくなら、だんだんと大人クリスチャンへと変えられていきます。良いことと、そうでないことの識別力も少しずつ身につくようになっていくので、義の行いに通じ、おのずと御心を行っていくようにもなります。その結果、神様に喜んでいただけます。そして、冒頭に書かれている、「年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず」の言葉ではありませんが、人々を永遠の命へと導くことを語っていけるようになっていきます。ですので、ぜひ、そのことをおすすめいたします。ただし、さっきも申し上げましたように、「弟子の歩み」が必須になりますので、そのことはご理解ください。繰り返すようですが、イエス様ご自身が弟子たちだけに、たとえの解き明かしや御国の奥義を知ることを許されましたので・・・志を与えられたのでしたら、弟子として歩みをして、堅い食物を食し、義の教えや行いに通じて大人クリスチャンへと成長し、御国を受け継ぐ者となっていきたいと思います。



 





私自身、弟子として歩む前までは、良いことと、そうでないこととの区別がまったくできていない状態でした。もちろん今でも、すべてのものを見分けているか?と聞かれたら、すかさず「ノー!」と答えてしまいます。でも、群衆の歩みをしていた頃に比べたら、良いことと悪いことについて、少しずつ区別ができるようになっていきました。



 



たとえば当時、弟子の歩みをする前は、艱難前携挙説やクリスチャンと名が付けば裁かれないという教理を盲信していました。それが良いものであり、正しいものだという風に思っていました。でも、弟子の歩みをするようになって、また、レムナントキリスト教会に通ってメッセージを通して御言葉を学んでいく中で、そういうものがNGであること、また、なぜ、それがダメなのか?について、それこそ御言葉の奥義と言われる部分から理解できるようになりました。ゆえに堅い食物をきちんと食べるかどうか?というのは、それこそ死活問題なのだということも理解しました。なので、機会があるたびに、御心や志を感じた方には弟子として歩むように勧めています。



 



それこそクリスチャンは裁かれないなんてことを最後まで信じて、後の世において、「あれ?!違った!!なんだか、熱い場所に入れられている!」なんていうことになったら大変なことですので・・・もちろん私自身もそうなってはいけないと思いますので、日々、主に憐れみを求めて歩みをするようにしています。また、まだまだ知らなければならないことすらも知ってはいませんので、これからも主の弟子として歩んでさらに義の教えや御国の奥義について学びをしていきたいと思います。本日も大切なことを語ってくださった神様に栄光と誉れがありますように。