聖書箇所 ヘブル人への手紙7:49



 



7:4 その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。



7:5 レビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、自分もアブラハムの子孫でありながら、民から、すなわち彼らの兄弟たちから、十分の一を徴集するようにと、律法の中で命じられています。



7:6 ところが、レビ族の系図にない者が、アブラハムから十分の一を取って、約束を受けた人を祝福したのです。



7:7 いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。



7:8 一方では、死ぬべき人間が十分の一を受けていますが、他のばあいは、彼は生きているとあかしされている者が受けるのです。



7:9 また、いうならば、十分の一を受け取るレビでさえアブラハムを通して十分の一を納めているのです。



 



「捧げ物」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。



 



冒頭の御言葉において、「十分の一」ということばが6回使われています。たしかにこちらの箇所では、それ以外の大事なことも語っているのですが、本日は、「十分の一」ということばに沿って主の語りかけを共にみていきたいと思います。



 



さて、「十分の一」ということばで私たちが真っ先に思い浮かぶのが、「十分の一献金」だと思います。それに関連したことがマラキ書に書かれているので参考までにみたいと思います。



 



参照 マラキ書3:911



3:9 あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。



3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。



3:11 わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。――万軍の主は仰せられる。――



 



10節で、「十分の一」ということばが出てきます。このところはKJV訳だと、tithesと書かれています。辞書を引くと、「10分の1」、あるいはそのままダイレクトに「什一献金」とも訳されています。また、「ためしてみよ」のところはKJV訳だと、proveという言葉が使われています。直訳すると、「証明する」とか「示す」という意味合いです。なので、日本語の意味合いとは大分異なります。「ためしてみよ」と言うと、あたかも什一献金をすることで主を試みることが許されるようなニュアンスに取れますが、原語で言っているのは、私たちが迷いなく、疑うことなく、十分の一の捧げ物をすることを言っているのです。分かりやすく言うと、十分の一の捧げ物を通して神様に信仰を示す、そんなことを言われているのです。ですから、「神様を試してもいいんだぁ」なんていう風に勘違いしてはいけません。ちょっと思い起こしてみてください。聖書ではあらゆる箇所において、主なる神を試みてはいけないことが言われていますし、神の御子であるイエス様ですら、神様を試みることはしませんでした。荒野でサタンによって試みに会われた時に、「主なる神を試みてはいけない」とハッキリおっしゃっていましたよね。イエス様に許されなかったことが、私たちに許されることはありません。ゆえに私たちもどんなことであれ、父なる神様を試みることのないように気をつけていきたいと思います。



 



さて、話はそれましたが、先ほど申し上げましたように、私たちは捧げ物を通しても、神様に信仰を示していく、そのことにもぜひ、目を留めていきたいと思います。「マラキ書に書かれているのは旧約時代のことだから我々には全く関係は無い!」と、そんな声も聞こえてきそうですが、いいえ、そんなことはありません。旧約聖書に書かれている事柄はすべて、新約時代を生きる私たちクリスチャンの教訓のために書かれているのですから・・・しかも、旧約時代の民を導かれた同じ神様が、新約時代の神の民、すなわちクリスチャンを導いているのですから、私たちも同じ教えに準じるべきだと思います。



 



献金に関して時々こんな声を聞きます。「もう、まったく嫌になっちゃう!教会に行けばやたらと献金のことばかりを言うのよねぇ」と。また、このことは過去インターネットのクリスチャンのサイトでチラッと読んだことですが、「献金」について語る教会は、「カルト」みたいな、そんなことを書いている記事もありました。ちょっとびっくりでした。聖書にそんな風に書かれているならともかく、これって聖書で言っていることと真逆ですよね?それから、たとえば以前通っていた教会の牧師は毎週の礼拝が終わると必ず、「皆さん、献金は十分の一ですからね」と、おっしゃっていました。レムナントキリスト教会に行くようになってから知ったことですが、そのことをあまり面白く思っていない教会員がいるということでした。あっ、今思い出しましたが、当時、「牧師先生はあんな風に言うけど、献金するのは結構大変!」なんてことを言われていた方がいたことを思い出しました。要は、毎週毎週、献金のことをそんなに言わなくてもいいのでは?しかも、お金のことなんだし・・・ということみたいです。



 



まぁ、それはともかく・・・ただ、ここで少し考えていただきたいのです。牧師が献金のことを言う、言わないは別として、神様が、聖書がハッキリとこのように書いているので、私たちはそのことに単に従えば良いのです。牧師が毎週言おうと言うまいと、あるいは年に一度しか言わなくても、それどころか全く言わなくても、従う人に恵みや祝福があるのは事実です。たしかに聖書の別の箇所では、「正義と公義(裁き)を行うことはいけにえに優って主に喜ばれる」というようなことが書かれてありますが、しかし、一方では、「十分の一もなおざりにしてはいけません」ということも書かれていますので十分の一の捧げ物のことも、きちんと従っていきたいと思います。



 



以前、エレミヤ牧師が礼拝のメッセージの中で、「献金を捧げる人は、結果として、他の人が見ていない、盲目に見過ごしている見るべき真理を見ている」ということをおっしゃっていましたが、そのことに私も同感です。絶対にそうだ!とは、申しませんが、概ねそうではなかろうか?と、また、それに関して思い当たることもいくつかあります。ではあっても、それでもなおかつ、「神様は愛の方なんだから、別に関係ないんじゃない?」と、おっしゃる方もいるかも知れません。でも、勘違いしないでいただきたいのです。神様は別に私たちのお金が欲しいわけではないのです。「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである」と、そんな御言葉があるように、神様は何も不自由はしていないのです。ただ、そのこと、献金のことを通しても私たちの誠実さや忠実さをご覧になりたいのです。また、献金のことに限らず、あらゆる点において私たちが主に言われた通りに行うか?をいつも観察されていて、どう対応したか?によって、神様も個々の人へどんな風に対応するのかを決められるのです。私たちが神様の前に忠実と真実と誠実を尽くして歩んでいるかを常々見ておられ、あらゆる判断基準とされるのです。はっきり言うなら、祝福を与えるか?呪いを与えるか?を、です。お金で試すなんてちょっと・・・と、思われるかも知れませんが、たとえば対人関係に置き換えてみるとして・・・もし、あなたがある人にお金を貸したとして、その人が「○月○日までにはちゃんと返しますね」と言ってあなたから借りたとします。でも、その日になっても、その日を過ぎても一向に返す気配が無かったとしたらどう思いますか?失礼ながら、その人のことは信用できませんよね。もう、二度とその人には貸したくないと思うのではないでしょうか?でも、ちゃんと返してくれる人だったら、そういう人には、また、貸してもいいかなぁなんて思いませんか?



 



こんなことと比較して良いか分かりませんが、神様と私たちの関係も同じことが言えるのでは?と思います。ゆえに、私たちが神様の前にこのことにおいても信仰を示すことは大事なことなのです。きちんと示していくことによって、神様との信頼関係が築かれていくのです。もちろん失業中だったり、収入源が無い学生さんやお子さんとかに関しては、話は別です。生活保護を受けている人や専業主婦とかに関しても、ケースバイケースです。ただ、原則を言わせていただくなら、十分の一献金を捧げることは聖書的に正しいことですし、実践していく人にポイントがあるのはたしかです。たとえば収入源が全く無くても、親御さんからお小遣いをもらっていたらその中から十分の一を、専業主婦の方でしたら、自由になるお金の中から捧げれば良いのではないでしょうか?ましてちゃんとした収入があるのでしたら、捧げていくのが当然なのでは?と、思いますがいかがでしょうか?そう、それこそエレミヤ牧師がおっしゃったように、このことのきちんと守っていくときに霊的な祝福や恵みを神様から私たちはいただけるのです。もちろん霊的な面だけでなく、実際の生活や経済においても守りや助けが与えられます。私たちがささやかながらも神様の前に献金を通しても信仰を示していくときに、たったそれだけで人知では計り知れない恵みや祝福の中に入れていただけるのです。すばらしいことですよね?!なので、ぜひ、このことをおすすめいたします。



 



余談ではありますが・・・ある外国のクリスチャンの方がおっしゃっていたのですが、「私たちが捧げるのはお金だけではない。時間に関しても十分の一を捧げるべきだ」と。その話を聞いたときに、きっとその国のクリスチャンは、そういう人が多いのでは?と思いました。また、このことに関しても、たしかにそうかもなぁ・・・とも思いました。一日は24時間です。当たり前のことですが、それに変わりはありません。24時間の十分の一は、2時間40分ですが、その時間を聖別して神様のために捧げていくことにもポイントがあるのでは?と思います。そんな長い時間、いったい何をするの?と、おっしゃる方もおられるかも知れません。お祈り、聖書通読、奉仕をされてみたらいかがでしょうか?そういったことを日々の日課にしてみたらどうでしょうか?もし、そのことを真剣に行っていったら、恐らくその時間では全く足りないということに気付くと思います。それでも、「いや、そんなことはない、祈ることなんてそんなに無いし、奉仕も特別任されていないし。」と、おっしゃる方のために・・・もし、本当に主にお仕えしていきたいと思われているのでしたら、ぜひ、共に歩みや働きをしていきませんか?私たち、というより、主は真にキリストに仕えていこうとされている方を今でも求めていますので歓迎します。御言葉にも、「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。」とありますので、しかもこれはイエス様がおっしゃっていることですので、そんな風に志を与えられたのでしたら、主の弟子としての歩みをされることをおすすめいたします。弟子として歩んでいくときに、2時間40分なんて時間はあっという間にクリアできますし、何よりもそのことを通して恵みや祝福に入りますし、最後まできちんと全うしていくなら最終ゴールである天の御国がゲットできますので、ぜひ、おすすめいたします。



 



繰り返しますが、聖書に書かれていることはどんなことでも忠実に守り行っていきたいと思います。十分の一の捧げ物や主にお仕えしていくことや、内側にある思いや考えを主に捧げていくことは、一見、損であったり、多くのものを失うように思えるかもしれません。しかし、いざ捧げてみると案外そうではなく、実際は主から多くの良きもので満たしていただけるという点に関しては正しくとらえていきたいと思います。また、捧げるべきものを捧げていくときに、生活のことをはじめ、霊的な面においても助けや守りが与えられますので、ぜひ、実践していきたいと思います。ただし、お一人一人の自由意志を尊重される神様ですし、まして自発的な捧げ物を喜ばれる神様なので、もちろん一切強制はありませんが、捧げるべきものをきちんと捧げるか?否か?において、結果が大きく変わるということは、一言申し上げておきますね。



 



それに関して呪いの面に関して、少し申し上げるなら・・・そう、もし、お金にしても、時間にしても、また、私たちの内側の思いや考えも含めて、捧げるべきものを捧げていかないときに、「持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。」という御言葉が悪い意味合いでそのまま成就してしまいますので、恐れをもって従っていきたいと思います。はたまた私たちがどこまでも頑なになって捧げていかないときに、天の御国に入るのは危ないのでは?と思いますので、気をつけていきたいと思います。聖書で語られているこういった原則に関しても、ぜひ、みておいていただけたらと思います。



 





以前行っていた教会の時のことですが・・・その教会に行く前に、しばらく私は信仰生活から離れていました。そして再び、神様の一方的な憐れみと助けと導きによって、イエス様と信仰生活に立ち返らせていただき、知人を通して近所の教会に通うようになりました。何回か礼拝に出席したある日、礼拝後のお昼の時にその知人から十分の一献金のことを勧められました。「十分の一献金をすることによって、かみ食らう虫を抑えることができるから」と。その教会では献金用の封筒がありましたので、早速事務所に行って、封筒をいただいて、その月からさせていただくことにしました。今にして思えば封筒は必要無かったと思うのですが、いずれにしてもその方の言われたことに従って実践するようになりました。そして結果として、それは私にとって益になりました。それこそ想像していた以上の恵みや祝福を神様からいただくことができましたし、今でもなお、いただいています。また、メッセージの中にも書きましたように、時間に関しても捧げるようになって、なおなお祝福や恵みの中を歩ませていただいています。神様がマラキ書で、「示しなさい」と言われましたが、そういった形において信仰を示すことができるのはある意味、恵みだなぁとも思います。世の中の人や一部のクリスチャンにおいては、「何それ?」と思うかもしれませんが、自分自身の実態を通して感じたことでしたので話をさせていただきました。何にしても実践する前は半信半疑かもしれませんが、御言葉に書かれていることは全て真実ですので、これからも主が言われていることは全て実践できるように祈り求めていきたいと思います。本日も大切なことを語ってくださった神様に栄光と誉れがありますように。