聖書箇所 ヘブル人への手紙8:13



 



8:13 神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。



 



2つの契約」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。



 



聖書では、「契約」ということばが度々使われています。「契約」とは、主がかつてアブラハムやイサクやヤコデと結ばれた契約、すなわちクリスチャンが天の御国を継ぐことに通じます。ここでは「新しい契約」「初めのものを古いとされた」と書かれているように、「古い契約」について書かれています。この2つの契約を通して神様が語ろうとされていることを共にみていきたいと思います。



 



はじめに、「古い契約」とは何を言われているのか?そのことをみたいと思います。同じ章の箇所から御言葉を引用しながらみてみたいと思います。



 



参照 へブル人への手紙8:79



8:7 もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。



8:8 しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。



8:9 それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。



 



7「初めの契約が欠けのないものであったなら・・・」とあるように、初めのもの、すなわち古い契約には欠けがあったことが分かります。具体的にはどんな「契約」だったのか?について、9節にそのことが書かれています。「彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約」がその答えです。それは何か?と言うと、2枚の石の板、すなわち旧約&新約の律法の書である聖書のことを言われていると思います。その聖書について、パウロは手紙の中で「欠けがある」と言われているのです。「聖書のことばはすべて真実なのだから、完璧でしょ?欠けなんてあるはずなんてないでしょ?!」とおっしゃるでしょう。たしかにその通りです。私も聖書66巻に書かれている御言葉をすべて信じる者であります。でも、ここで言われているのは私たちクリスチャンが律法、すなわち文字に仕えているのか?それとも御霊に仕えているのか?なのです。冒頭の御言葉はそのあたりのことを取り扱っているのです。聖書に書かれている律法は、どれもこれもすばらしいものです。しかし、その一方で聖書は、私たちがいつまでも律法の下にいることについて奨励はしていないのです。以下、御言葉を見てみてください。



 



参照 ガラテヤ5:18



5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。



 



この御言葉を通して分かるように、御霊に導かれることによって、私たちは律法から解放されるのです。だからと言って、罪を犯して良いか?と言うと、そうではなく、御霊によって歩んでいくときに自ずと律法を確立するようになっていくのです。律法そのものはたしかにすばらしいものではありますが、私たちを天の御国に導くのは律法ではなく、御霊、すなわち聖霊ご自身であるということを今一度正しくとらえておきたいと思います。そしてそのことを「新しい契約」と言っているのです。それに関することがヘブル人への手紙8章の10節に書かれています。



 



参照 へブル人への手紙8:10



8:10 それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。



 



聖書には、多くの律法についての記述があります。しかし、ここで神は、「わたしの律法を彼らの思いの中にいれ、彼らの心に書きつける」と言われています。聖書を通して文字としての律法はたしかにある、が、しかし、神の律法、つまり、御心を、もっと言うなら神様ご自身の思いを、私たちの心の中に神様が入れてくださるということを言われているのです。神様が何を喜ばれ、そうでないかということを自ずと理解するようになると、そんなことを言われているのです。ヘブル人への手紙の同章11節に「また彼らがおのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者にいたるまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである」と書かれている通りです。



 



もし、私たちが恵み、すなわち御霊によって歩んでいくなら、特別誰かに教えてもらわなくても神様を知るようになるのです。うまく言えませんが、単に聖書の文字上で知性において神様を知るだけでなく、ダイレクトに神様ご自身に触れるようになるということなのです。分かりやすく言うと、霊においてイエス様を知り、触れるようになる、ということを言われているのではないかと思います。そしてそのことにポイントがあります。100%当たっているかどうかは分かりませんが、古い契約に欠けがあったというのは、すなわち御霊による働きが欠落していたと、そんなことを言われているのではないかと思います。そのことに関して、ここ最近レムナントキリスト教会の礼拝で詩篇15篇を通して「主の臨在」について学びをしました。いくら私たちが自分の力で落ち度無く律法を守り行っていたとしても・・・しかし、私たちの内側に神様がおられなかったら、なんと空しいことでしょう。私たちクリスチャンの歩みや働きは、神様が共におられてなんぼのものではないでしょうか?そのことでパリサイ人や律法学者のことを考えてみましょう。彼らは聖書の教え、つまり律法に精通していた人々でした。今で言えば、神学に詳しいクリスチャンでしょうか。けれども彼らは目の前にいるイエス・キリストを救い主と認められず、排斥し、迫害し、あろうことか最後は十字架に付けて殺してしまいました。聖書のことに詳しい彼らが、そんな失敗をしてしまったのです。なぜ、失敗したのか?神様の思いや心とは、遠くかけ離れていたからです。真の意味合いで彼らは神様のことを知らなかったのです。そう、本来なら聖霊に導かれるところ、彼らは聖霊以外の別の霊、つまりサタンに導かれていたからです。その結果、彼らはみな、神の裁きに入ってしまい、御国を受け継ぐことができませんでした。私たちの内側に神様がいるか否か?聖霊を宿しているか否?によって、後の世における結果が天と地ほどの差になってしまうのです。一歩間違えるとパリサイ人や律法学者のように聖書を知りながらも、最悪の結果を招いてしまう可能性があるのです。このことを決して他人事と思わずに、私たちもきちんと対応していきたいと思います。本当に聖霊に導かれているかどうかを、歩みの中でいつも吟味していきたいと思います。



 



それでは、「律法」の役割とは何か?について少し話したいと思います。聖書に書かれている律法を自分の力で生涯守り続けていくなんてことは、御言葉で言われているように、まず、あり得ないのです。罪を犯すことは良くないことではあっても、だからと言って神様は私たちが自分たちの力でパーフェクトに律法を守ることを要求しているか?あるいはそれを喜ばれるのか?と言うと、そうではありません。なぜか?そんなもの守れっこないからです。では、律法は何のためにあるのか?と言うと、私たちの実態を知るものとして、自分の本来の姿を認識させるためのものとして書かれているのです。自分がいかに罪深い者か?そのことを認めてはじめて信仰のスタートを切ることができるのです。少し考えてみましょう。未信者だった頃、自分がまさか罪人だなんていう風に認識したり自覚したりしていましたか?皆無とは言いませんが、恐らくそういう人は、ほぼいないと思います。



 



そのことに関して、私自身の証と言いますか、体験したことを少し話したいと思います。「罪人」と言うことに関して少なくとも私は、未信者の時代にそんな風に思ったことは一度もありませんでした。たしかに時々悪いことをしたりはしましたが、だからと言って、神様の前に罪人だなんて思ったことはありませんでした。全てではないにしても、基本的には自分の思いや考えが正しいと思っていましたし、そのことを優先していました。自分自身により頼んで生きていました。でも、イエス様に出会って、聖書を読んだり学んだりしていく中で、自分がいかに罪深い者であるかが分かり、その時からイエス様無しではとても生きていけない、今までは自分がボスになっていたけれど、もう、それはやめよう、そう思ってから信仰生活が始まりました。



 



また、どこかの箇所には律法のことを「養育係」と言い、つまり一時的なものであることが書かれていますが、律法は私たちを信仰に、キリストの元へと導くためのものなのです。そのあたりのことで私をはじめ、勘違いしているクリスチャンは案外多いのでは?と思いますので、もし、思い違いがありましたら、本日の箇所からきちんと習得し、霊においてもきっちり体得していきたいと思います。



 



ですから私たちは古い契約、すなわち文字によって歩むのではなく、新しい契約、つまり御霊によって歩んでいきたいと思います。御霊によって歩んでいく時に内側の思いや考え、はたまた言動や行動もだんだんと神様の似姿へと変えられていきます。そしてそのポイントは、いつも申し上げていますように、お祈りと御言葉の読み込み、それに尽きます。お祈りを通して、罪や悔い改めるべきことが示されたりすることがあります。その時に、真に悔い改めていこうと祈り求めるなら、悔い改めに導いていただけます。たとえ罪を犯してしまっても、自ら気付いたり、あるいはそのことを聖霊に指摘されたりしたときに、私たちが誠実と真実を尽くして悔い改めていくなら、神さまはとても喜んでくださり、大いに祝福してくださいますので、そんなことがありましたら、ぜひ、おすすめいたします。聖書通読に関しては・・・先程、私たちは律法の下ではなく、恵みの下にいると申し上げましたが、しかし、御言葉を通して神様の語りかけを、ちゃんととらえていきたいと思います。聖書には私たちを義と矯正に導くための有益な教えが沢山書かれています。いくら恵みの下にいるとはいえ、聖書を読むのをやめてしまうときに、真理から大きくズレていってしまいますので、聖書通読を日々の日課にしたいと思います。また、大半のことはたとえを通して語られています。たとえを理解することによって、本来、神様が意図されている意味合いが理解できるようになります。そう、表の意味だけでなく、奥義と言われている裏の部分も分かるようになっていくのです。そしてたとえを理解するためにも、御霊によって聖書を読んでいくことにポイントがあります。それは度々くり返し語っているように、弟子の歩みに通じます。弟子として歩んでいくときに、たとえの意味合いも徐々に理解できるようになり、奥義に精通できるようになります。その際、分からないことはその都度、「神様、この箇所で語っていることがよく分かりません。いつの日か、教えてください」と神様の前にへりくだって聞いていくことも大事なことです。



 



そして最後に・・・聖書を読んで分かることは、私たちが御国に入れるか入れないか?のひとつのキーワードとして、どんな霊に導かれていたか?ということが非常に大事なことですので、絶えず聖霊の力を求めて歩みをしていきたいと思います。本日の御言葉、「新しい契約」すなわち御霊による歩みに留まり続けて、クリスチャンの最終ゴールである天の御国に、ぜひ入っていきたいと思います。