聖書箇所 ヘブル人への手紙9:22

 

9:22 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

 

「悪い霊から解放されていく」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

「血」は、霊的なたとえです。この世においては目には見えなくても、あらゆる霊が常に働いていて、信者、未信者問わず、私たちは何らかの霊の影響を受けて生活をしています。「霊」は、ざっと2種類に区分されます。“聖霊”or“悪霊”の区分です。神を信じるか?否か?についても二分されるように、霊的な事柄もはっきりとしています。要は、“聖霊”以外の霊は、すべて“悪霊”です。ゆえに私たちがどんな導かれるか?は、非常に大事なことですし、死活問題に関わってきますので常に真面目に向き合っていかなければならない事柄だということが分かります。ですからクリスチャンとして歩んでいるのでしたら、尚のこと真剣にとらえなければいけません。信仰、奉仕、歩み、賜物等、これらはたしかに尊いものではありますが、しかし、どんな霊に導かれているのか?については、時折、または、場合によっては度々チェックする必要があります。もし、聖霊以外の別の霊、すなわち悪霊に導かれるなら、信仰の根幹がすべて崩されてしまうからです。また、今の終末の時代は聖書に書かれているように、惑わす力が送り込まれる時代なのでそういったことも考慮しながら歩んでいく必要があります。このことは私自身が体験したことなのですが・・・良い証かどうかは別として、少し話したいと思います。

 

今年に入ってあることがいくつか起きました。いずれもあまり良いことではありませんでした。単刀直入に申し上げると、複数の人を通して理不尽なことが自分の身の上に許されました。たしかにそれだけを見るなら、そのように用いられた人々が悪いと、そんな風に思えますし、実際にそうだったかもしれません。しかし、それはそれとして、ただ、今振り返ってみると、それは神様からの試しでした。でも、その渦中にいる時には、「自分は決して悪くない。そういうことをする人がおかしい」と、何か納得のいかない割り切れない思いになりました。要は、そういうことをする人たちに対してしばらくの間、苦い思いを抱いていました。そんな思いを持ったまま、ある時、お祈りをしていく中で、「ひょっとすると自分は悪霊に導かれているのでは?とんでもない惑わしに入っているのでは?いくら自分は何も悪いことした覚えが無いと思っていても、敵に感情を完全に支配されているのでは?」という思いが内側にきました。それから、「神様、私はきっと悪い霊に導かれていると思います。自分は聖霊に導かれているつもりで歩みや働きをしていますが、でも、もし、悪い霊にいつまでも導かれるなら、とんでもない方向に行ってしまうと思います。このままだと、いずれ魂が荒廃して、最悪滅んでしまいますので、何とか助けてください。色々な惑わしや混乱や罪からどうか助け出してください」という風にお祈りしました。幾日か祈っていく中で、内側に変化が起きてきました。神様の許しの中で起きたことについて、ほぼ、何も考えることがなくなりました。それどころか、そのことに感謝する思いも与えられました。さらに自分のいたらなさや不足している点、すなわち罪について示されました。「ああ、自分も色々と落ち度がある者なんだから、人様のことなんて何も言えないし、まして責めるなんてとんでもない」と思いました。それと同時に内側が喜びと平安に満ち溢れました。主への感謝の気持ちが込み上げてきて、「神様、あなたのなさること、良いことも、そうでないこともすべてに感謝します。また、私のいたらない部分、罪をどうかお赦しくださいますように。これからは、もっとイエス様だけを、心からあなただけを信じて頼っていきたいです」という思いが湧き上がってきました。すると不思議なことに何日かして、「もう、何も思い煩うことはないんだよ。今後何か色々と起きたとしても、私だけを見つめ、私だけを頼っていきなさい。私があなたを助けるんだから。」という主からの語りかけを夢の中で受けました。その時に、「ああ、自分は悪い霊に導かれていたんだ。神様に仕えている、歩んでいると思っていたけれど、そうではなかった。でも、神様が助けてくださったんだ。あのこともこのことも、私が悪い状況の中に置かれても、ちゃんと主に従っていくか?感謝を捧げて歩んでいくか?の試しだったのだなぁ」ということに気付きました。

 

私のつたない体験を通して、何を申し上げたいのか?と、言うと、私たちは些細なことで、すぐに悪い霊に影響されやすいということです。「私は、絶対にそんなことない!」「俺はあんたみたいにそんなことにはならないぞ!」とおっしゃる方もおられるかも知れません。本当にそうでしたら問題は無いのですが、しかし、今は非常に特殊な時代にいるということに関しては正しくとらえておいてください。このことを認識するのと、しないのとでは全く結論が異なってくるからです。要するに、「惑わされやすい」「罪に入りやすい」「すぐに悪い霊に影響されやすい」ということを前提に歩んでいったほうが安全なのでは?そうするなら神様の憐れみによって魂が守られるのでは?と私個人はそのように思います。ついこの間、礼拝のメッセージで語られていたことですが、サタンは自分が時の短いのを知っているので、一人でも多くのクリスチャンを火の池へと道連れにしようと、ありとあらゆる画策を練って、クリスチャンを攻撃してきます。特に思索に働きかけて、神の支配下からサタンの支配下へと移そうと躍起になっています。未信者やこの世についているクリスチャン、つまりもう、すでに惑わしに入っているクリスチャンに対してはそのまま放っておいてもいいのですが、選民、すなわちキリストの弟子として忠実に歩んでいるクリスチャン、もっと言うならこのまま歩んでいくと御国を受け継ぎそうなクリスチャンをも何とかつまずかせようと必死に働いていることは念頭に置いて歩んでいったほうが良いと思います。それこそ、「悪魔が吠えたける獅子のように食い尽くすべきものを探している」なんていう御言葉が聖書のどこかに書かれていましたよね。そして怖いことに、「自分はきちんと歩んでいる」「奉仕もちゃんとしている」なんていう風に思わせながらも、悪い霊に影響させるように仕向けていくのがサタンの方法なのではないのか?と思います。さっき話しましたように、「自分には何も非が無い」と思い込ませて人を裁いたり、苦い思いを抱かせたりして、悪い霊へと引っ張っていくのではないかと思います。仮にもし、自分のほうに全く落ち度がなかった場合に、理不尽な目に会わせる人と、会った人と、どちらが悪いか?と言うと、前者が良くないに決まっていますし、そのことは主ご自身が百も承知のことではあります。だからと言って、いつまでもそのことに引っ張られるのがいいか?と言うと、それは決して良くありません。そういう思いの中に、敵の侵入をあっさりと許してしまうからです。特に理不尽なことを言われたり、されたりした時に、どう対応していくか?が大事だということです。そしてそれは、はじめに申し上げましたように、ある意味、私たちへの試しとして神様によって許され、選り分けのために用いられるものでもあるのです。ですから、もし、そういうことに陥りそうになったら、まずは、聖霊の前にへりくだって祈っていくようにしていきたいと思います。祈っていく中で、内側の思いや感情が聖霊から来たものなのか?そうでないのか?の区別は比較的あっさりとできますし、そのことを通して正しい方向へと変えることができ、再び聖霊の支配下の中で歩みや働きをしていくことができるようになります。そう、もし、悪い霊に影響されてしまったからと言って、単に落ち込んで終わるのではなく、お祈りの中で神様から助けや導きをいただいていきたいと思います。悪い霊の中にいたとしても、神様はそこから助け出すことのできるお方ですし、私たちがそういったことに陥りやすいことも御存知なので主を信頼して、ひたすら祈り求めていきたいと思います。また、周囲の人でそういったことに入ってしまっているのでは?という示しを聖霊によって受けた時には、すかさずその人が悪い霊から解放されていくことができるように、ぜひ、とりなしていきたいと思います。そしていつも申し上げていますように、解放されてそれで、「ああ、良かった」で終わるのではなく、お祈りと御言葉の読み込みに励んで、益々、主にお仕えしていきたいと思います。

 

繰り返しになりますが、私たちは大なり小なり、霊の影響を受けています。そして時折、悪い霊に引っ張られてしまうことがありますがその都度、主によって解放されていくことができるように祈り求めていきたいと思います。たとえどんなに悪い霊に縛られていても、心から助けを求めていくときに、主は決して見捨てることなく、憐れんでくださって助けてくださって救い出してくださいますので、そのことを信じて祈り求めていきたいと思います。しかもその延長線上においては、主の祝福や恵み、喜び、平安が約束されているのです。「罪の赦し」と書かれているように、罪も赦していただけるのです。このことも繰り返しになりますが、いくら信仰を持っている、奉仕もしている、と、言っても、別の霊に導かれてクリスチャン人生を終えてしまうなら空しい結果に終わってしまいますし、何ら実を結ぶこともありません。でも、聖霊に導かれるなら、多くの義の実を結ばせていきますので、ぜひ、霊を吟味し、聖霊、すなわち主の臨在にとどまり続けてクリスチャンの約束の地、天の御国を目指していきたいと思います。