聖書箇所 ヘブル人への手紙10:30

 

10:30 私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」、また、「主がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています。

 

「報復は主に委ねる」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

最近、レムナントキリスト教会の礼拝のメッセージの中で、サタンはしつこくしつこく私たちクリスチャンを何とか永遠の命から外そうと、必死に働いていることについて教えていただきました。それこそ命の書に名が記されているクリスチャンすらも、そこから引きずり降ろそうとしているのです。また、敵は個々のクリスチャンのどこをつけば御国から外すことができるのかをよく知っていて、その部分を攻撃してきます。いわゆる敵はクリスチャンがどんな風に歩めば御国に入れるのかを私たち以上によく知っているのです。もちろん後の世に受ける報いの偉大さについても、です。そう、そして「復讐」ということば、このことをうまく用いて永遠の命を奪うという手段を用いることがあります。そしてもしかすると敵の攻撃の多くはこのことに集中されているのでは?とも思います。たとえば理不尽な目に会わせる人に対して、いつまでも敵意や苦い思いを持たせて永遠の命を奪うという方法です。それに対してどんな風に対応すべきなのか?について、本日の箇所は語っています。

 

さて、このことについては私自身が今まで数多く体験しましたし、これからもきっと、それこそ地上に生きながらえている間は最後の最後までつきまとっていくのでは?と、個人的には思っています。今さっき話しましたようにサタンの攻撃もそうですが、それと共に神様の試みの大半はこのことだからです。

 

私自身のちょっとした証ですが、以前から私のことを迫害する人がいました。もちろん私にも悪いところはありますが、「なぜ、こんなことが許されるの?」と、思うことが多々ありました。時としてその人と口論になることもありました。迫害だけにとどまらず、理不尽なことも往々にして許されました。はじめは感情的に対応していたのですが、「これでは自分自身も危ない!」ということを御霊に感じましたので、ある時を契機にすべて神様に委ねることにしました。「主の御心が成りますように。すべてを最善へと導いてくださいますように。祝福と恵みがありますように」と、お祈りするようになりました。すると一年、二年と、年数を経ていく間に多少なりともその人との関係が変わっていきました。完全ではないにしても、明らかに主が介入してくださっているなぁということを感じられるようになりました。私自身の内側にあった苦い思いも次第に消えていくようになりました。その人はまだ、イエス様のことを全面的に受け入れているわけではありませんし、御霊によって変えられたわけではありませんが、少なくとも私自身の内側には大きな変化がありました。

 

証を通して申し上げたいことは、もし、私自身が迫害や理不尽なことに対してキレてしまったり、投げ出してしまったりしたら、神様の栄光はいつになってもあらわされない、ということです。それどころか今現在、信仰を持っていたかどうかも怪しいと思います。主に委ねていく中で神様が働いてくださって形勢がだんだんと変えられていくようになったのです。このことも最近、礼拝のメッセージで教えていただいたことですが、たとえばダビデのことを思い出してみてください。彼は何も悪いことをしていないのに、サウル王や息子のアブシャロムに追いかけられたり、殺されそうになりましたよね。その時にダビデは、「俺はもう、やってられない!」と言って自分の感情の赴くままに行動をしたか?仕返しをしたか?と言うと、そうではなく主を避けどころとしてそのことを主に訴えましたよね。そして最終的には主からの助けや守りが与えられましたよね。普通なら、迫害だけならともかく自分の命を狙う人に対しては、何とか手を下したい!と思うと思うのですが、逆に自分の部下に対して、「アブシャロムのことをゆるやかに扱ってくれ」と言っていましたし、サウル王に関して手を下すチャンスがあった時に、「神に油注がれた人に手を下すことなど私にはできない」と言って、そうはしませんでした。イエス様やパウロやステパノもそうではありませんでしたか?罵られたり、つばを吐かれたり、頭を叩かれたり、ムチを打たれたり、石を投げられたりしても、言い返しも、仕返しも一切しませんでしたよね。すべて神様に委ねましたよね。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは自分が何をしているのか分からないのです」と言って、イエス様は息を引き取りました。ステパノも同様でしたよね。そう、サタンやサタンによって動かされている人が悪いなんてことは、神様が百も千も承知のことなんです。ゆえにサタンが、そして相手がいくら悪いからと言って、絶対に自分で復讐してはいけないのです。「復讐はわたしのすることである」とありますように、すべてを御存知の神様が報いをなさるので、どんな状況であっても私たちは神様に委ねていくようにしたいと思います。聖書に「悪に対して悪に報いることなく、善をもって悪に立ち向かいなさい」なんてことが書かれていますけど、意地悪をしたり理不尽な目に会わせたり、迫害したり罵ったりする人たちに対して、逆に祝福を求めていったりすることに御心があるのでは?と思います。他の箇所では、「あなたがたを迫害する者のために祈りなさい」ということが書かれていますし、そうするなら、「いと高き方のこどもになれる」とも言われていますので、聖霊にあってぜひ、そのことを祈り求めて実践していきたいと思います。そうしていくときに、イエス様が苦しんだ後に栄光を受けられたように、私たちもそれに準じる者となっていきますので、ぜひ、おすすめいたします。

 

近未来には、かつてもなく今後もないようなひどい苦難の時、つまり3年半の艱難時代が到来します。その時には、投獄や逮捕、殉教等、理不尽なことのオンパレードになっていくと思いますが、最後まで赦しの心や憐れみの思いを保ち続けていけるように、日々の艱難時代の備えの祈りの中でしっかりと求めていきたいと思います。まかり間違えても、嫌な目に会わせる人に対して悪いことをしたり、呪ったりして、恵みから落ちてしまうことのないように気をつけていきたいと思います。