聖書箇所 ヘブル人への手紙11:1

 

11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

 

「信仰」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

ヘブル人への手紙の11章全体は「信仰」とは、どのようなものであるか?について書かれています。そして今日は「信仰」の意味合いについて皆様と共に主からの語りかけを聞き、考えてみたいと思います。

 

冒頭の御言葉を通して分かることは、「信仰」とは目に見えるものではない、ということです。そんなこと当たり前でしょ!と言われるかもしれませんが、知性や建前はともかく、今のクリスチャンが本当にそのことを理解しているか?あるいはそのように歩んでいるか?と言うと、大半の人がそうではないのでは?と思います。失礼を承知の上で、なぜ、そんなことを言うかと言うと、同章の2節に、「昔の人々はこの信仰によって賞賛されました」と書かれているからです。続いて、サンプルとしてアブラハムやイサクやヤコブやモーセ、遊女ラハブのこと等が書かれています。いずれも主の勇士としての歩みや働きをした人々でしたが、これらの人たちはすべてイエス・キリストの型でもあります。要は、彼らは主に倣う信仰の勇士としての模範とも言えるのではないかと思います。「昔の人々」と書かれているように、かつての人々は賞賛に値する信仰生活を送っていたと、そんなニュアンスを感じます。また、彼らの共通点は、やはり、この世の目に見えるものではなく、常に後の世に視点を置いて歩んでいたということです。そう、「昔の人々」という風にわざわざ書かれているということは、今の人々、要は終末の時代のクリスチャンの中で彼らのようにイエス・キリストを規範として歩んでいるクリスチャンは、皆無ではないにしても、ほぼいないのでは?と思います。何を申し上げたいのかと言うと、はじめに申し上げましたように建前はともかく、実質は「目に見えること」に焦点を当てながら歩んでいる人たちが多いのでは?と思います。

 

「信仰」ということに関連して、このような証が参考になるかどうかは分かりませんが・・・今の日本の現状を見るとクリスチャン人口は1%にも満たないような状態です。しかし聖書には、「ユダ族の獅子」ついての記述があって・・・詳細はともかく、いずれ日本がキリスト教会全体を引っ張っていく立場になることが創世記や黙示録で預言されています。このことについては、エレミヤ牧師が礼拝のメッセージやニュースレターやHPのメッセージを通してちらほらと語っています。しかもとても大事なことだと私自身は思っています。たしかに今は未信者が多く、他の神々を拝んでいる人たちばかりかも知れません。でも、聖書にはそのように預言されているので、現状はともかく、近未来に異邦人が救われること、そしてユダ族の獅子である日本人がその時には立ち上がってキリスト教会をリードしていくことを見越して働きをしています。自分の家族、親族、友人、知人をはじめ、救われていない人を目の当たりにしながらも、しかしいずれ神様の時に、そういう日が訪れることを信じて、そのための準備や働きをしています。

 

申し上げたいことは、異邦人が救われて、日本全体が変わってから、「ああ、そうだ、聖書のことばは真実だ」と気付くのではなく、まだ、そのことが成就する前に、神様が、つまり御言葉が言われていることを信じて突き進んでいくことにポイントがあるのでは?と思います。こんなことを申し上げたら、若干不信仰に聞こえてしまうかもしれませんが、たとえ自分が生きている間にそのことが起こらなくても、でも、後には必ずそれは成る!という風に確信を抱きながらそのことに目を留めて、日々、奉仕をしています。もちろん生きている間に実現して目の当たりにできたら、それはとても素晴らしいことだと思います。でも、もし、そうでないとしても・・・後において成就した時に沢山の人が救われるなら、それはそれでベストだと思っています。たしかに今の日本や日本人を見るなら、そんな日が来るようには思えないでしょう。でも、聖書にはハッキリと日本の立場、日本人の救いに関して書かれていますので、必ずそのことは成就すると私は堅く信じています。ですから、もし、そのことが真実だと思うのでしたら、そういったラインに沿って働きを担われることをおすすめいたします。もちろん「信仰」は働きだけではなく、個々の人の歩みにおいても言えることです。まだ、見ていないことを、もっと言うなら、まだお会いしていないキリストのみに、御言葉のみにどんな時でも望みを置いて歩む、それが「信仰」です。それこそ、「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。」という御言葉ではありませんが、この世の目に見えるものではなく、見えないもの、これから成就するであろう事柄に常に焦点を当てて歩みや働きを担っていくことにポイントがあり、そういう歩みに徹していくときに、昔の人々のように神様から賞賛を受けるのでは?と思います。ただし、そのように歩んでいくときに、言うまでもなく、「忍耐」は必須ですので、そのあたりのことは、きちんと心得ておきたいと思います。ではあっても、ぜひ、まだ、見ていないものに視点を置いて歩みをし、働きを担っていきたいと思います。そして後の世において、神様から栄冠や誉れを受けたいと思います。