聖書箇所 ヘブル人への手紙13:12,13

 

13:12 ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。

13:13 ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。

 

「門や宿営の外で」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

ここでは「門」とか「宿営」ということばが出てきます。私の想像なので当たっているかどうかは分かりませんが、この二つは同じことを指し、恐らく都の教会、いわば会堂を持っている、あるいは正統派と言われているごくごく普通の既存の教会のことを指すのではないか?と思います。そして終末は、こういう教会から出て行きなさいということを主が言われています。教会を出るなんて言うと、「とんでもない!不信仰な!」と、おっしゃると思います。でも、残念ながら聖書では「都」と呼ばれる多くの教会は徐々に反キリストに席巻されていきます。いえ、もう既に多くの反キリストが出てきていることは聖書に書かれていますし、そういう教えが大半の教会にどんどん入り込んできている時代です。具体的には、アメリカ由来の嘘、偽りの教えが教会の中に浸透しつつあります。例を挙げ出したらキリがないのですが、大きな特徴としては、終末のことや裁きに関することをほとんど言わないというものです。神の愛や祝福や恵みは強調されています。もちろん聖書にこのことも書かれているので嘘ではありません。しかし聖書にはそれだけでなく、神の厳格な裁きや呪いや災いについての記述もかなり記されています。極端なことを言うと、大半がそうです。でも、片面、いわゆる神の愛のみがやたらと強調されていて、裁きに関してほとんど言わないというような教理を受け続けていくときに、残念ながら天の御国に至るのは難しい、いえ、多分無理だと思います。ですから主は、そういうところからは出て行きなさい、そんなところにいつまでいても滅び一直線になるだけだぞ!と、いうことを言われているのではないかと思います。

 

そう、言わんとしていることは、門&宿営の外、いわば既存の教会から出て天の御国を目指していきなさい!というのが、本日の箇所で主が語ろうとされている事柄です。なぜ、出なければいけないのか?それは、たった今、申し上げたようにおかしな教理がこれからキリスト教会にどんどん蔓延するからです。それこそ以前、教会は霊の食事をするところだという話をしましたが、おかしなメッセージを聞き続けていくうちに、あるいは受け入れ続けていくときに、どんどん永遠の命から離れてしまうということは、よくよく覚えておいていたほうが良いと思います。ですからどうしても永遠の命をゲットしたい!と、思われているのでしたら、ズバリ言うと、既存の教会にとどまっていてはダメなのです。地下教会に入って仮庵の祭りに入っていかなければいけないのです。

 

私のちょっとした証ですが、当時はまだ今ほどおかしな教理が蔓延していませんでしたが、しかしすでに艱難前携挙説のことが言われていたり、クリスチャンの裁きに関してはほとんど聞くこともありませんでしたし、まして終末に関する解き明かしもされていませんでしたので、ある時を契機に主の導きによってそこの教会を離れてレムナントキリスト教会へ行くようになりました。「いつまでもここにとどまっていてはダメだ。恐らく滅んでしまう」とそんなことを御霊に感じたので、そうすることにしました。そして出た結果、どうだったか?と言うと、「大正解」でした。このことは本当です。もちろん人間的には戸惑いもありました。良い人たちばかりでしたし、数年間通っていたので親しくなった人たちも若干いましたので、残念に思わなくもなかったのですが、でも、肝心要の永遠の命に関する教理が聖書のみことばと相反していましたので、それは死活問題に関わるので思い切って教会を移ることにしました。そしてレムナントキリスト教会に行くようになってから今日に至るまで神様からとてもとても大事なことを教えていただいています。ちょっぴり早いタイミングだったかも知れませんが、でも、いずれ出なければならないのなら、早いうちに出ておいたほうがいいと思いましたので、本当に良かったと思いました。まして御霊さまが導いてくださったので、その時が私にとってはベストなタイミングだったのでは?と思いました。そのことについては今でも日々とても感謝していますし、これからもずっと感謝していくと思います。そんな主の憐れみや助けに感謝して益々キリストに仕えていけたらと、そんな風に思っています。

 

証はこんな感じなのですが、ただし、本日のみことばにもありますように、人間的に良いことばかりか?と言うと、そうではありません。すべてがハッピー、ハッピーではないことは申し上げておきますね。何を申し上げたいのか?と言うと、冒頭のみことばに書かれているように、「苦しみ&はずかしめ」がセットでついてくるということです。それこそどこかのお店で品物を購入して、おまけで何かいただけるのならまだしも・・・「苦しみ」「はずかしめ」ですから、人間的にはちっとも喜ばしくない、いえいえ、できれば拒否したいものですよね。でも、既存の教会を出て、荒野の教会、いわば地下教会に入ってそれで終わりか?と言うと、そうではなく、そこではキリストの苦難やはずかしめを体験させられるのです。「そんなの嫌だ!」と誰もが言うでしょうし、思うでしょう。でも、「キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか」と書かれているように、そのことを体験して通過しないと「みもと」、つまりキリストのみもと、すなわち「天の御国」に入れないことが理解できます。昨今キリスト教会やクリスチャンの間では、天の御国は楽勝!というような風潮があるので、「苦しみ」「はずかしめ」とは、受け入れがたいことかも知れませんが、聖書にはこのようにはっきりと書かれているので、ぜひ、そのことを尊重していきたいと思います。そういったことを通して、いわば苦しみやはずかしめを経て永遠の命をゲットする、それが聖書において、また、一貫して語られている教えなのでは?と思います。

 

個人的な歩みおいてもそうですが、事実、レムナントキリスト教会においても、このこと(苦しみ&はずかしめ)は時としてあります。一例を挙げるなら、ニュースレターを拒否されたり、ホームページを妨害されたり、時として非難や中傷をされたりします。みことばから真実を語っているにもかかわらず、そのことに難癖を付けられたり、大事な部分を削除されたり、あるいは無視されたりと、人間的な言い方をするなら、踏んだり蹴ったりと、そんなことが許されます。神様の前に正しいことをしているにもかかわらず、苦しめられたり、はずかしめられたり、理解してもらえなかったり・・・まさに本日のみことばは真実だなぁとつくづく思います。でも、悪いことばかりではなく、12節のみことばではありませんが、キリストが苦しみを受けることによって聖なる民がおこされたように、苦しみやはずかしめを受けながらも、私たちの働きを通して真理に触れたり、見たり、はたまた稀に弟子として歩む人までもがいたりしますので、そう、つまり労苦は決して無駄にはならずに着実に実を結ばせているので、そんなことを励みに働きや歩みに皆で励んでいます。

 

このようなことは傍目にはあまり良く見えないかもしれませんし、理解されないことかも知れませんが、でも、少なくとも私自身はこうした歩みや働きに入れて本当に良かったと思っています。パウロが別の箇所で、「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」ということを言われていますが、いざ実際にいのちを投げ出せるかどうかは別として、私自身もそんなスタンスでこれからも歩んでいったり働きを担っていきたいと思いました。それこそ門&宿営の外で、です。本日も大切なことを語ってくださった神様に栄光と誉れがありますように。