聖書箇所 エペソ人への手紙1:14

 

1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

 

「聖霊の印を受ける」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいとおもいます。

 

クリスチャンでしたら、「もう、私はすでに、聖霊は受けているから大丈夫」と、そんなふうにおもわれている方が多いとおもいます。たしかに、神様を知らない未信者の方には、聖霊は内住していないことは事実です。ですから、未信者からクリスチャンになって約束の御霊をいただいているという表現は、まちがえではありません。

 

しかし、問題があります。なぜ、そんなことを申しあげるのかと言うと、とくに終末は、聖霊の印だけでなく、悪霊の印というのが出てくるからです。

 

みなさまは、「獣のしるし」ということばを耳にしたことはないでしょうか?じつは、終末に「獣の印」を受けるか否かということが、天の御国を受け継ぐか否かのキーワードになってくるのです。黙示録ではそのことを「刻印」と言っています。そして、もし「獣の印」を受けてしまうなら、14節のことば「御国を受け継ぐことの保証」は無効になってしまうのです。

 

参照 黙示録14:9-11

14:9 また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、

14:10 そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。

14:11 そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。

 

このことは、反キリストや獣の国に関連することがらですが、いま、多くのクリスチャンやキリスト教会のあいだでは、クリスチャンは艱難を通らないということがまかり通っているために、自分たちとはまったく関係がないとおっしゃるかも知れません。

 

しかし、聖書ではクリスチャンが艱難を通ると言われていますし、もう、すでに、このように獣の刻印を受けるということが、キリスト教会やクリスチャンの中で実現しつつあるのです。それは、たとえば、ディズニーランドの再入場のように、獣のキャラクターのスタンプを額や手に付けるということではありません。ご存知かどうかわかりませんが、トロントのリバイバル集会において、このようなことが起きています。

 

リバイバル集会という名が付いているので、とうぜん、クリスチャンが集まる集会なのですが、あろうことか、そこでは、“take the mark of the beast! ”(獣のしるしを付けろ!)と、器がさけんでいるのです。本来なら、聖霊が下されるはずの集会において、なんと、悪霊が下されているのです。いわば、悪霊のリバイバル集会と化しているのです。キリスト教会の、ど真ん中で、まさにこういった働きがまかり通り、大手を振っているのです。そして、獣のしるしを付けられたクリスチャンは、突然倒れたり、笑い出したり、獣のように体をバタバタさせたりしているのです。

 

このことは、まさに、獣のしるし・・・と、言えます。しかも、そういった霊を受けた人たちは、それが聖霊の働きだと勘違いしているのです。これは、ひじょうにおそろしいことです。

 

また、霊にかぎらず教理においても、獣の教理は多数あります。すでに、アメリカでは、政府に定められた法律をもとに、教理がだいぶ捻じ曲げられつつあります。例を挙げるなら、イエスの名で祈るなとか、聖書研究をするなとか、同性愛を容認しろとかです。そして実際に、そういうことに異をとなえたり、したがわないクリスチャンが法律を犯したと難癖を付けられたり、逮捕されたり、罰金を科せられたりしているのです。反対に、イエスの名で祈らなかったり同性愛を容認したりしている教会は、税の優遇がなされるなんてことを聞いたことがあります。

 

どうでしょうかまさに、これって、獣の教えというふうに言えないでしょうかもし、そんな教理に賛同するのなら、いくら神様を信じている、イエス・キリストを受け入れていると言っていても、獣をおがみ、結果として獣のしるしを付けてしまうことになるのです。

 

いまはアメリカ国内や一部のヨーロッパでこういったことが起きていますが、やがては日本にも、そして、全世界にも、このようなことは広がっていくとおもいます。そう、黙示録でイエスさまがかたっている「全世界に来ようとしている試練の時」ということばが、そろそろ成就しつつあるのです。

 

そしてこのことは、いまの時代の多くのクリスチャンが御言葉を捨て去っているゆえに、神さまのゆるしのもとに起きていることがらなのです。また、このような試みを通して、神さまは真にキリストに着くクリスチャンとそうでないクリスチャンとを区分されようとしているのです。真の花嫁さがしのために、御心に叶った花嫁と永遠のときを過ごすために、そのようなことをもちいていると、言えます。

 

そんなふうに理解するなら、いま、アメリカで起きていることは、ふしぎなことでも矛盾することでもなんでもないとおもいます。もし、聖書の記述を深刻に考えるなら、これから獣のしるしによって、聖霊の印を取り消されてしまうクリスチャンは、多数出てくるとおもいます。いまは、まだ、とくに日本においては、大きく法律が変えられていませんので、そうではないかも知れませんが、やがてアメリカが施行しているようなことが法律の中に導入されていくようになったら、おそらく、そのことにしたがっていく人が続出するのではと、おもいます。

 

ぜひ、そんなときが来たときに、あっさりと獣のしるしを付けてしまって、聖霊の印が消されてしまうことのないようにしていきたいとおもいます。言うまでもなく、もし、獣のしるしを付けてしまうのなら、聖霊の印は無効になってしまいます。獣のしるしを付けるということは、神さまとの契約を破棄するというふうに見なされてしまいますので、気をつけていきたいとおもいます。そして、知らないあいだに獣のしるしを付けられることのないように、日々、きちんと祈り、聖書を読み、神さまの前に忠実に歩みや働きをしていきたいとおもいます。

 

最近、弟子の歩みのときに、獣の像の時代にどんなことが起きてくるのかについてまなんでいます。また、それと同時に、アメリカでどのようなことが起こっているのかについておしえていただいています。日本では考えられないことが多数起きているのですが、その一部を紹介したいとおもいます。

 

アメリカの高校生が卒業式の答辞で、イエスさまのことをかたろうとしたら、そのことにストップがかかったとか、小学生のこどもが食事の前に祈っていたら先生に注意されて椅子ごと外に出されたとか、そんなことを聞いています。また、刑務所で伝道をしていた牧師が、その牧師のさらに上の立場の牧師から、「もう、イエスの名で祈らないように」という注意を受けたということも聞いています。

 

このようなことは、ほんの一部のできごとに過ぎませんが、これからますます、エスカレートしていき、挙句の果てには、正しいクリスチャンが犯罪者あつかいをされていく流れになっていくのでは?とおもいました。でも、残念ながら、このことは聖書に書かれているようにすすんでいることですし、イエスさまも法廷に引っぱられて死罪にされたのですから、私たちも正しく歩んでいくのなら、おなじような道をたどるのだと考えていくのが妥当なのでは?とおもいます。

 

教会のメッセージの中でも、「いのちに至る道は狭い」ということはたびたび言われていますが、私個人も、ますます狭くなっていくなぁとおもいます。たしかに現時点(いまは2012)においては、日本では、こういったことは入ってきていませんが、そう遠くない将来にアメリカとおなじようなことが起きてくるとおもいます。そのときに、どちらの立場に立つのか?について、いまからはっきりと決めておくことや祈りによって備えていくことのたいせつさについて、本日の御言葉やメッセージをとおしておしえていただいたようにおもいます。本日もたいせつなことをかたってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。