聖書箇所 エペソ人への手紙2:8,9

 

2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

 

「信仰によって救われる」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいとおもいます。

 

とつぜんですが、最近、「行いの罠」ということを、礼拝のガラテヤ人への手紙のメッセージをとおして、おしえていただきました。

もちろん、ヤコブ書の記述もあるように、私たちは、信仰だけでなく、おこないも必要なことは、たしかです。

でも、本日の御言葉にも書かれているように、救いは、ただ、信仰によって、なされるのです。

また、9節「行いによるのではありません」と、はっきりと言われていますように、裏返すと、おこないによっては、救われないのです。

それに続いて、「だれも誇ることのないためです」とありますように、おこないをすることは悪いことではないにしても、そのことをあまりにも強調するときに、人は、えてして誇りやすい者になってしまうということが理解できます。

じゃぁ、おこないは、まったく必要が無いのかと言うと、そうではありません。

ただ、はじめに申し上げましたように、「行いの罠」というのが、キリスト教会やクリスチャンのあいだにあるので、そのことについて、すこし、話をさせていただけたらとおもいます。

 

このことは、礼拝のときにエレミヤ牧師から聞いたことですが・・・

エレミヤ牧師が、以前所属していた教会では、第二の救い恵みと称して「きよめ、せいけつ」ということが言われていたそうです。要は、罪に対して、潔白でなければいけない、どんな罪もあってはならないと、そうであるべきだというおしえがあったそうです。

でも、よく、考えてみてください。

たしかに、私たちが祈りによって、罪に抵抗したり、戦っていったり、解放されていくことは大事なことではありますが、かと言って、この地上で生きているかぎり、まして、肉の体をまとっているかぎり、「完全なきよめ」というのは、まず、ありえないとおもいます。気がつくと、大小問わず、私たちは、特別意識しなくとも、罪を犯してしまうのではないでしょうか。

もちろん、そのことをいつまでも放置したり、罪にそのまま引っ張られていくのは良くはありませんが、でも、その都度、イエス様に祈ってゆるしをいただいて、きよめていただいたり、解放されたりしていくことが大事なのではないでしょうか。

ところが、その教会では、「きよめ、せいけつ」を得ていかなければといけないということが言われていたそうで、いつのまにかおこないに入ってしまい、あろうことか、罪に対してナーバスになったり、互いにさばきあってしまったり、挙句の果てには人を責めたりして・・・その結果、限界に来てしまい、信仰が危うく破たんしそうになったということです。

幸い、聖霊によって、そのことをエレミヤ牧師は気づかせていただき、そこから出ることができたそうですが、いわゆる、このような「行いの罠」というのは、決して他人事ではなく、クリスチャンなら、誰しもが陥りやすいのではないかとおもいます。

要するに、救いの根幹に関して、見えなくされてしまう、そんなことが言えるのではないかとおもいます。

ですから、私たちは、そういった罠に入ることのないように、くれぐれも、気をつけていきたいとおもいます。

このことに関して、8節に書かれているように、「恵みのゆえに、信仰によって救われたのです」のことばを、絶えず、思い起こしていきたいとおもいます。

しかも、それは、「自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」とありますように、そのことすらも、神さまから発しているのだということを言われています。

賜物は、英語では、“gift”と訳されているのですが、信仰を持つことすらも、神さまからの一方的なプレゼントだということを、よくよく、覚えておきましょう。

一見、私たちは、自分からそういう思いを持ったと思うかもしれませんが、そうではなく、神さまを信じることやイエス様を救い主として信じて受け入れることすらも、神さまの力によってなされているのだと、そのように受け止めていきましょう、それも、限りなく謙虚になって、です。

そうしていくときに、9節の御言葉「だれも誇ることのないためです」とありますように、私たちは、自分自身を誇る必要が、まったく、無くなっていくのです。

むしろ、そのことに対して、神さまに、いつも感謝の気持ちを持ち続けていくというふうに、変えられていくのです。

そして、その延長線上において、そう、あまりにも神さまの偉大なプレゼントのゆえに、「主にお仕えしていこう!」あるいは、「なんとか、神さまに仕えていきたい!」と、そんな思いが次第に芽生えていくのではないかとおもいます。

その結果として、主によろこんでいただけることや御心をおこなっていくようになっていくのです。

それこそ、そのことが、ヤコブ書で言われている、「行い」のことを指すのです。

しかも、祈りを通して、聖霊の力によっておこなっていくので、平安な思いや喜びを持って成していくことができます。

そして、そのことは、神さまの前に尊いものと見なされ、よろこんでいただけます。

しかも、神さまから益々、愛されるようになります。

ただし、「行い」と言っても、2パターンがあり、人間の肉の力でおこなうのか?はたまた、御霊の導きによって聖霊の力によっておこなうのか?いずれのどちらかを私たちは選択するわけですが、このことは、もちろん、言うまでもなく、御霊の力によってなしていくことに御心がありますので、そのことについて、絶えず、祈り求めていきたいとおもいます。

信仰によって救われ、その延長線上において、御霊によるおこないがあるという点についても、ぜひ、とらえておいていただきたいとおもいます。

 

メッセージの中に書かせていただいた「行いの罠」に関しては、私も、とても人さまのことを言える立場ではなく、自分自身も実際に、陥ったことがありますし、あるいは、気をつけていないと、たびたび、陥りそうになる罠です。

ちなみに、「行いの罠」に陥っているときには、平安や恵みがまったくありません。

それこそ、口に出して言わないまでも、平気で人のことをさばいてしまったり、高ぶってしまったりして、結果として、魂が荒廃しそうになっていくのを、自分のことながら、主に、まざまざと見せつけられたことすらあります。

でも、憐れみと恵みに満ちた神さまが、そのことを色々な方法で私にしめしてくださり、おしえてくださり・・・そして、心から、「神さま、ごめんなさい、傲りや高ぶりをどうか、ゆるしてください、そういった悪しき思いの一切を取り去ってください」という祈りにも導いていただき、そのような罠から、解放させていただくことができました。

まだまだ、物事を杓子定規にとらえてしまう部分も根強く残ってはいますが、ひとつひとつのことを、それこそ、今日の御言葉に書かれているように、信仰によって、変えられていきたいなぁとおもいます。

また、信仰によってさせていただくおこないに関しても、ただ、主の恵みによってさせていただいているにすぎないんだ!と、そんなふうに絶えず、神さまに感謝していかれたらなぁとおもいます。

本日も大切なことをかたってくださった主に栄光と誉れがありますように。