聖書箇所 エペソ人への手紙3:1

 

3:1 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。

 

「キリストの囚人となって神の働きを全うする」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいとおもいます。

 

唐突な質問ですが、この文章を読まれているあなたがもし、囚人として人々から扱われたら、どのようにおもわれますか?

また、もし、キリストの囚人になることを神さまから示されたりすすめられたりしたときに、間髪入れずに「はい!そうします!」と、そのように答えられるでしょうか?

なぜ、このようなことを申し上げるのかと言いますと、私たちクリスチャンの完成者であり信仰の模範となるイエスさま御自身が実際のところ、囚人として扱われ、最後は十字架にかかって死なれたからです。

もし、私たちが、イエスさまがたどった足跡について真剣に考えて目指していくのなら、ゆくゆくは「囚人として扱われる」ということに関しても、視野に入れて歩んでいく必要があるのです。

 

さて、この世において「囚人」というと、まったく良いイメージはありません。

「囚人」ということばを辞書で引くと、「法令によって刑務所に入れられている人」と、あります。

いわば、何らかの法律を犯して刑務所に入れられている人のことです。

たとえば窃盗、殺人、誘拐等です。もちろんその場合、悪いことをしたのだから当然と言えばそうなのですが、しかし、イエスさまやパウロの場合そうではなく、逆に神の御心をおこなったがゆえにそのような扱いを受けてしまったのです。しかもこういうことが、もうすでにアメリカや一部のヨーロッパのクリスチャンの身の上に起きているのです。

それこそ日本では、そんな話は聞いたことが無いとおもいますが、アメリカでは路傍伝道すら、やりづらい、そんな状況になっているそうです。

たとえば、いままでも何度か例を挙げさせていただきましたが、スーパーで聖書を片手にメッセージをしていた牧師が逮捕されたり、家庭集会でメッセージをしていた牧師が逮捕されて60日間の禁固と約1万ドル罰金を科せられたとのことです。

彼らは逮捕されたのですから、それこそ事情はどうであれ、誰の目から見ても「囚人」ですよね。

けれども、彼らは何一つ悪いことなんてしていないのです。むしろ神さまの目には良いことをしているのです。にもかかわらず逮捕され、囚人として扱われてしまっているのです。

このことを、どうおもわれますか?

私個人としては、なんて理不尽な!とんでもない!!と、おもいます。

でも残念ながら、もう、そういう時代に入っているのです。

いやぁ、本当は、彼らはおかしいんじゃないのか?おかしいから逮捕されたんじゃないのか?と、そんな風におっしゃる方もおられるかもしれません。

しかし、いえいえ、絶対にそんなことはありません。彼らがおかしいのでもなんでもなく、世の中がおかしいのです。

訳の分からないおかしな法律を下に彼らは罰せられ、処せられてしまったのです。

 

このことはほんの一例に過ぎず、色々と挙げだしたらキリが無いのですが、以前も申し上げましたように、やがてはこういったことが、アメリカを起点に全世界を覆っていくようになる、ということについては黙示録にも記載されていることですので、再度重ねて申しあげておきます。

ですから、そこで勘違いしてはいけないのです。

逮捕されたのだから、自分が悪いことをしたのでは?と、そんな風に誤解してはいけません。

もし正しいことをおこなって、しかし、なおかつ囚人として扱われたときには、それこそイエスさまが迫害されたら喜ぶようにと言われたように、喜び踊ったほうが良いのです。

もちろん悪いことをしてその報いを受けたのなら話は別ですが、聖書のことばに忠実に従ったゆえに、そのように扱われるのなら、逆にそれは光栄なことなのです。

そう、本日の御言葉で言われている「囚人」ということばは、じつは聖書的にはポイントが高いということをぜひ、ご理解いただきたいのです。

 

もちろん逮捕されたり牢に入れられたりするということは人間的には嫌なことですし、人には悪くおもわれたり言われたりするかも知れません。

しかし、そんなことを気にしてはいけないということを、正しく理解しておくことをおすすめいたします。

そう、上記の御言葉でパウロがキリスト・イエスの囚人になったということを言われていますが、まさに、このことは栄誉とも言えることなのです。

そうではないでしょうか?パウロは他の使徒、たとえば、ペテロやヨハネやヤコブに、すこしも劣ることの無い大伝道者であることを神さまから認められていたのですから・・・その証拠に書簡の数も、他の使徒に比べてずば抜けて多いですよね。

 

本日の箇所を通して何を申しあげたいのかと言うと、キリストの証人になるのなら、あるいは真に神さまの働きに着くのなら、囚人扱いされるという側面もあるのだということを正しくとらえておいていただきたいとおもいます。

そして繰り返しますが・・・囚人として扱われるのは、じつは神さまの前には、ひじょうに光栄なことであるという点にについて、ぜひ、とらえておいていただきたいとおもいます。

以前の私もそうだったのですが、多くのクリスチャンにそういった認識がほとんど無いのでは?とおもいますが、これからの時代、日本においても法律を下にそんなことがゆるされていくということについても、みておいていただけたらとおもいます。

 

囚人という風に扱われないまでも、クリスチャンというだけで、身内や親族から冷ややかな目で見られたり、疎外されたりということは、いままでに何度となく体験したことがあります。

それこそときとして、根も葉も無いようなことを言われたり、誤解されたりということもあります。

そして、かつては多少なりとも、そういうことに合わせたほうが良いのでは?とか、誤解を紐解いたり、弁明したりしたほうが良いのでは?おもうこともあったのですが、いまではそういったことに、ほとんどとらわれることがなくなりました。

もし人から悪くおもわれたり言われたりしても、それはそこまで、と、そんな風に聖霊さまの力によって、だんだんと割り切れるようになってきています。

ただ、艱難時代は、そんなレベルとは比べられないような困難がゆるされそうなので・・・それこそ、イエスさまやパウロのように「囚人扱い」を受けるかもしれないので、そういったことに対して正しく対応できるように、いまからしっかりと祈ったり訓練したりしなければ・・・とおもっています。

また、いまヨブ記を通して艱難時代について学んでいますが、サタンのシビアな試みが正しいクリスチャンの上に徐々にゆるされていくようなので、それが神さまからの懲らしめだなんて、そんな風に的外れになったり、それをもとに不信仰になったりしないように、そういったことについても祈りによってきちんと備えていけたらいいなぁとおもっています。

本日もたいせつなことをおしえてくださった主に栄光と誉れがありますように。