聖書箇所 エペソ人への手紙5:14

 

5:14 明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

 

「霊的な眠りから覚醒する」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

ここに、「眠っている人よ」と、ありますように、眠っている人々に対しての呼びかけがあります。

「眠る」と言うと、たしかに、私たちは、一日が終わると疲れて眠ります。

しかし、ここで言われている、「眠る」というのは、それとは、違います。

くりかえし、申し上げていますように、聖書は多くのたとえに満ちた書で、ここでも、それが使われています。

この「眠る」という言葉は、そのあとの「死者の中から起き上がる」という言葉に、かかっています。

ちなみに、今までも、くりかえして説明してきましたが、聖書で言われている「死」とは、たしかに、肉体のことも言われているかもしれませんが、それ以外に、「罪」という意味をあらわしています。

そして、むしろ、そのことに強調点が置かれているように思います。

ですから、「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。」とは、「罪の中から出てきなさい!」ということを言われているのです。

つまり、「霊的に眠る」というのは、「罪の中に入っている」ということを言われているのが、お分かりかと思います。

 

福音書の中で、イエス様は、死んだ人(罪に)のことを起こしに行きました。

Ex:ラザロ、会堂管理者の娘等

 

参照 ヨハネ11:1-45

11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。

11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。

11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」

11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

11:7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。

11:8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」

11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」

11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」

11:11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。

11:12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」

11:13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。

11:14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。

11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」

11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」

11:17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。

11:18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。

11:19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。

11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。

11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。

11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」

11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」

11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」

11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

11:28 こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます。」とそっと言った。

11:29 マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。

11:30 さてイエスは、まだ村にはいらないで、マルタが出迎えた場所におられた。

11:31 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。

11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、

11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」

11:35 イエスは涙を流された。

11:36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」

11:37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。

11:38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。

11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」

11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。

11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」

11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。

11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

11:45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。

 

参照 マルコ5:22-43

5:22 すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、

5:23 いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」

5:24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。

5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。

5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。

5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。

5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。

5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。

5:30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。

5:31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」

5:32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。

5:33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。

5:34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

5:35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」

5:36 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」

5:37 そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。

5:38 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、

5:39 中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。

5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。

5:41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)

5:42 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。

5:43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。

 

今の時代においても、イエス様は罪に死んでいる人を起こしたい!と、そのように思われているのです。

そして、私たちが起きるためには、どうすればよいのか?に関して、ラザロや会堂管理者の娘にヒントがあります。

それは、主からの声が、かかったときに応答することです。

 

具体的にはどういうことか?と、言うと、私たちが罪の中に入り込んでいるときに、正すことができるように、主は、いろいろな方法を通して、警告を語ってくださいます。

それは、災いを通してかも知れませんし、お祈りやメッセージを通して、あるいは、お一人一人の心にダイレクトに語ってくださったり、人を通して語られるかもしれません。

そのときに、素直に耳を傾けて、応じていくのなら、罪から解放されていきます。

その結果として、真理の光のほうへと導いていただけるのです。

 

当然のことですが、私たちが罪の中に入り込んだままだと、真理を見ることができませんし、そもそも、真理を求めようという志すら、与えられないのです。

でも、罪から離れていくのなら、「キリストがあなたを照らされる」と言われているように、真理の光へと行くことができるのです。

この部分はKJV訳では、「キリストがあなたがたに光を与える」と書かれています。

そうなんです、罪から目覚めていくときに真理の光がお一人一人に与えられていくのです。

 

 そして、残念ながら、終末は、益々、罪の中に入っていく時代です。

なぜかと言うと、同章の1516節に、このように書かれているからです。

 

エペソ人への手紙5:15,16

5:15 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、

5:16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。

 

 16節を読んで分かるように、パウロの初代教会の時代ですら「悪い時代」と言われているのですから、今は、益々、そういう時代に入っているのでは?と、いうふうに思います。

たとえば、アメリカでは、トラクトを配布しただけで逮捕されたり、イエス・キリストの名によって祈ることを禁じたりしています。

どうでしょうか?こういうことを耳にして、まさか、よい時代だとは言えませんよね。

しかし、そうでは、あっても・・・私たちは霊的な目から覚めて、真理の光のうちを歩んでいくことができるように、常々、祈り求めていきたいと思います。

 

 くりかえすようですが、霊的に眠ったままだと、真理を見ることができないという点に関しては、よくよくとらえておきたいと思います。

なぜかと言うと、御霊と肉が相反するように、罪と真理もそれと等しく、共存することはないからです。

ですから、神様から何らかの示しを受けたときには、素直に応じていきたいと思います。

その都度、応じていく中で、真理の光を見たり、神様の御心にかなった歩みや働きを成していくことができますので、ぜひ、そのように心がけていきたいと思います。

 

 上記メッセージは、自分にも、色々と思い当たることがあります。

たしかに、罪の中に入っているときに、霊的に正しい判断がすることがほとんどできない、と、いう体験をしています。

そして、その只中にいるときには、それが、「罪」だということにすら気がつかず・・・つまり、「罪」を「罪」と素直に認めることすらできず、むしろ、自分を正当化してしまって、さらに、罪に入り込んでしまうという悪循環に、いつの間にか、陥ってしまいます。

 

 でも、憐れみに満ちた神さまが、そんな中においても、あらゆる方法を用いて、気づかせてくださいます。

まず、第一ステップとして、気づくこと、そして、次のステップとして、そのことを神さまの前に素直に認めること、さらに、悔い改めへと導いていただくこと、そのようなステップを踏んで、少しずつ、罪から、解放されていくことが可能になります。

 

 そして、信仰生活というのは、そういったくり返しなのだなぁということを日々の歩みの中で、痛感しています。

もちろん、罪を犯してしまうのは良いことではありませんが、しかし、主から語りかけを受けたときに、どんな風に対応していくのか?が、常々、問われているように思います。

これからも、小さな罪から大きな罪をはじめ、色々と失敗をしてしまうかも知れませんが、神さまから、何らかの注意を受けたときには、素直に応じていけたらなぁと思います。

本日も大切なことを語ってくださった主に栄光と誉れがありますように。