聖書箇所 ガラテヤ人への手紙2:21

 

2:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。

 

「神の恵みによって律法を確立する」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

クリスチャンでしたら、ご存知のように、聖書には、私たちを永遠の命に至らせるための教え、掟、定め、戒め、訓戒などが数多く記されています。

これらのことを「律法」と言います。

たしかに、聖書は、人を矯正へと導くための書物ですし、律法を守り行うこと自体は素晴らしいことだと思います。

とは言っても、人は律法を行うことでは義とされないということについても、聖書では言っています。

たとえば、同章の16節には、このように書かれています。

 

参照 ガラテヤ人への手紙2:16

2:16 しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

 

なぜ、このようなことが書かれているのか?不思議に思いませんか?

旧約においても、神様は神の民に「わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。」とか「わたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行え。」と言われています。

ですから、律法を守り、行うのは正しいことなのです。

しかし、果たして、すべての律法を守れる人が、この地上に存在するのか?と言うと、3章の11節で、「ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです」と言われていますように、そんな人は、いないのです。

もし、仮に、盗みはしなかったとしても、人を憎んだりしたら、もう、それだけで、律法の違反者になってしまうのですから。

 

では、律法とは、どういったものなのか?について、少し話をしたいと思います。

聖書には、律法という言葉が、何度も何度も使われていますよね。

ですから、今更、とりたてて説明してもらわなくても、分かっている!と、言う方は多いと思います。

ただ、私なりに理解させていただいた範囲内で補足という形で話をさせていただければと思います。

さきほども申し上げましたように、聖書には、ありとあらゆる御教えが書かれています。

たとえば、モーセの十戒の中には、「あなたの父と母を敬え」とか、「自分のために刻んだ像を造ってはいけない」などです。

他にも「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ」とか「あなたを憎む者や迫害する者のために祝福を祈りなさい」などということが書かれています。

聖書は66巻ですので、もちろん、他にも、沢山の御教えがありますが、これらのものを通して、学ぶことがあります。

それは、聖書に書かれている数々の律法を通して、私たちが自分自身の本来の姿というのを知るということです。

何を申し上げたいのか?と、言いますと、さっきも話しましたように、私たちはたびたび、律法の違反者になってしまうということです。

聖書の御言葉と自分の心の内側を照らし合わせていくと、どれもこれも、従来の自分の持っている力やもともとの性質では守るのは難しい!ということが分かります。

実は、そのことを自覚することが大事なのです。

要するに、律法とは、自分自身の内面的な弱さというのを知るためのものなのです。

そのようなことに目覚めて、はじめて、信仰のスタートを切ることができるのです。

また、聖書では、律法のことを「養育係」とも言っています。

 

参照 ガラテヤ人への手紙3:24

3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。

 

そうなんです、私たちが、キリストのところへ導いていただくための、養育係なのです。

養育係である律法を通して、あれもこれも、守るのは難しい、ああ、自分の本来の姿は神の前に罪深い者である!ということを理解するためのものなのです。

そもそも、もし、律法が無ければ、誰一人として、自分が罪深いなんてことは分かりませんよね。

でも、律法を通して、この部分も、あの部分も、自分は守れていない・・・ということが判断できます。

もし、そんな風に自覚できるのなら、聖書の言葉が良いものであるということを認めているわけなのです。

そして本当に、聖書の言葉が真理であると心から思うときに・・・聖書の言葉は、イエス・キリスト御自身ですから、キリストを信じる信仰を持つことができるのです。

このことは、まさに、はじめに見ました御言葉、「ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」の成就とも言えます。

そして、キリスト・イエスを信じることができたなら、義と認められ、そこから、信仰の歩みをスタートすることができるのです。

とても素晴らしいですよね。

すべての律法を守れるようになったら、あるいは、行えるようにならなければ信仰を持つことは出来ないなんてことは言っていないのです。

もし、そうだとしたら、誰も信仰を持つことなんて出来ませんし、冒頭の御言葉に書かれていますように、神様の恵みが無駄になってしまったり、キリストの死が無意味になってしまうのです。

 

ちなみに、私たちの周りには、やたらと、行いを強調する宗教団体がいます。

たとえば、ものみの塔は、その最たるものとも言えます。

人に伝道をしなければ救われないと、そんな教えが信者の人々に根付いているようです。

我が家にも、時々、訪問して来る方がおられます。

インターフォン越しではありましたが、その方たちと、少しお話する機会がありました。

彼らは聖書も読んでいて、全能なる神(エホバ)を信じているそうですが、イエス・キリストのことは否定していました。

神=イエス・キリストなのですが、イエス・キリストは神ではないということを言っていました。

つまり、イエス・キリストが救い主であることを否定しているのです。

いくら聖書を読んでいると言っても、イエス・キリストを否定するのなら、真理はありませんよね。

伝道熱心なのは良いことですが、イエス・キリストが不在の信仰というのは、むなしいものですし、いつまでたっても、聖書で言われている「義」に至ることはないと思います。

私の想像ではありますが、聖書に「時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えなさい」とあるので、そのことに基づいて伝道なさっているのかも知れませんが、やはり、キリスト抜きでは、勝利を得ることはできないと思います。

また、先日、教理的に正しくても、キリストが共にいないのなら、勝利できない、まさに、敗北だということを学びましたが、彼らの行っていることも、まさに、そのようなことなのではないかと思います。

ですから、私たちは聖書に書かれている通り、イエス・キリストを信じることによって、義とされていきたいと思います。

書かれていることを、そのまま、素直に、受け止めていきたいと思います。

このことは、神様の恵みをそのまま、受け取ることになります。

そして、パウロは、神の恵みを無にしませんとか、キリストの死を無意味にしてはならないということを言われていますが、このことはとても大切なことだと思います。

せっかくの神様からの恵み、そう、キリストを信じて義と認められたのなら、肉の弱い部分をはじめ、すべてのことをキリストにより頼んで歩んでいくようにしていきたいと思います。

また、キリストにより頼んでいくためには、祈っていくことが必須です。

そうすることによって、肉体は罪のゆえに死んでいても、霊においては御霊によって歩んでいけるようになっていきます。

日々、祈って、聖霊さまから力をいただいて歩んでいくときに、神様が方向性をその都度示してくださり、そのことを繰り返していく中で、聖書に書かれている律法を、おのずと確立できるようになっていきます。

ちなみに、ローマ人の手紙には、「しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」ということが書かれていますので、ひたすら、キリストの力のみによって歩み、律法を確立していきたいと思います。

こういった点についても見ておいていただけたらと思います。

 

メッセージの中でも少し話をしましたが、教理的に正しくても、キリストが内側にいないときに敗北してしまうということがあるということについて、自分にも思い当たることがいくつかあります。

特に、人々に証をしたりするときに、祈りによってキリストから力をいただいて行うか否かによって、まったく結果が変わってくるということについて自分自身の体験を通して痛感するものがあります。

以前から話していますように、私は、レムナントキリスト教会に行く前には、人の前もそうでしたし、文面においても証する機会を持ったことは、ほとんど、ありませんでした。

ただ、個人的な伝道というときにおいて、少し、証することがありましたが、当時は、ほとんど祈っていなかったので、いまひとつ、要点を掴んで話をすることが出来ませんでした。

また、いくら、正しいと思うようなことであっても、祈らないと聖霊の力が働かないので、思うように相手に伝えることが出来ませんでした。

こういったことは、ほんの一例ではありますが、やはり、キリストが共におられるのと、そうでないのとでは、同じことをしていても、神様の前に、まったく違う結果になってしまうのだなぁということを学びました。

そういったことに限らず、今でも、失敗することは多いのですが、ひとつひとつのことを、きちんと神様に祈って行っていきたいなぁという風に思います。

また、御言葉と心の内側を照らすときに、失望することも多々ありますが、こういったことについても、キリストの復活の力によって少しずつでも変えられていきたいと思います。

今日も、色々と大切なことを教えてくださった神様に栄光と誉れがありますように。