聖書箇所 ガラテヤ人への手紙3:27-29

 

3:27 バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。

3:28 ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。

3:29 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

 

「御霊の歩みによって相続人になる」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

順にみていきます。

 

3:27 バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。

ここでは、バプテスマについて、書かれています。

以前、レムナントキリスト教会の礼拝で使徒の働きのメッセージの中で、バプテスマの意味合いについて、教えていただきました。

バプテスマとは「浸す」という意味だそうです。

「キリストをその身に着た」とは、キリストが浸された、もっと言うなら、キリストの霊によって、その人の内側が支配されているということです。

今まで、サタンの支配下にいた人々が、キリストの支配の下に入ったなら、「キリストにつく者」とされたのです。

そのようなことをここでは語られているのです。

たしかに、キリストを救い主として信じて心に受け入れて、クリスチャンとしての歩みをスタートさせるために、川や湖やプール等で、洗礼を施します。

もちろん、そのこともバプテスマと言われていますが、もっとも大事なことは、そういった形式、たとえば、洗礼式と滴礼とではどちらがいいか?といったようなことにこだわることではなく、キリストの霊、すなわち聖霊を内側に宿しているかどうかが大切なのです。

 

次をみます。

 

3:28 ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。

ここで、ユダヤ人とギリシヤ人が出てきます。

たしかに、今でも、そういった人種は存在します。

でも、聖書で言われているユダヤ人とはクリスチャンのことを、ギリシヤ人とは異邦人のことを指すようです。

クリスチャンであっても、異邦人であっても、いずれも、聖霊を受けているのなら、キリスト・イエスにあって、ひとつとなるということを言われています。

 

さらに、次をみてみます。

3:29 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

「約束による相続人」とは、天の御国を受け継ぐ人のことです。

そして、ここでは、その条件について、言われています。

それは、「アブラハムの子孫」であることです。

旧約のイスラエルや新約のクリスチャンは、皆、アブラハムの子孫です。

創世記には、このように書かれています。

 

参照 創世記22:17

22:17 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。

 

ちなみに、星や砂はクリスチャンのたとえです。

「空の星や海辺の砂のように数多く増し加えよう」と言われているように、今日に至るまで、世界中には、キリスト教を信じる沢山のクリスチャンがいます。

そして、益々、その数は増え続けています。

主がまさにアブラハムに「数多く増し加えよう」と言われた御言葉は、現在に至るまで、見事に成就しているのです。

 

さて、話を戻します。

はじめに申し上げました「約束による相続人」という言葉に、もう一度、目をとめていただきたいのです。

特に、「約束による」という言葉について、神様の語りかけを感じます。

もし、ここに、「無条件に」という言葉が入っているのなら、あまり深く考える必要はないのですが、神様のほうで、「約束による」という風に条件を出していることについて、考えてみたいと思います。

「約束」という言葉に関連して、いくつかの御言葉を参照してみたいと思います。

 

参照 使徒2:33,38,39

2:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」

 

参照 エペソ1:13

1:13 またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。

 

これらの参照箇所の御言葉を読む限り、「約束」と「聖霊を受ける」ということは、非常に密接な関係があるということを理解できます。

そして、このことは、先に見ました27節の「バプテスマを受ける」ということとも、深い関係があるようにも思います。

つまり、聖霊を受けている人、聖霊を内側に持っている人、分かりやすく言うなら、御霊によって歩んでいる人が、さらに掘り下げて言わせていただくなら、絶えず聖霊の力に支配されている人が、「約束による相続人」になれるのです。

 

クリスチャンというと、一様に考えがちかも知れません。

皆が皆、聖霊によって歩んでいると・・・

以前の私もそのように思っていました。

しかし、聖書は・・・このこともレムナントキリスト教会の礼拝のメッセージの中でたびたび言われていることなのですが、聖書は、人の思いや考えが優先されるものではありません。

はたまた、人間の願望や希望が果たされるものでもありません。

身も蓋もない言い方で恐縮ではありますが、神様の思いやお考えや未来に起きてくることについて、はじめから終わりまで淡々と記されている書であります。

そんな概念で、思いや固定観念を外して、神様がどんなことを語っているのかを直視してみたいと思います。

 

そう、賢い花嫁と愚かな花嫁、良い魚と悪い魚、麦と毒麦と、そんな風に記されていますように、聖霊によって歩んでいるクリスチャンとそうでないクリスチャンとについて、常に対比して書かれています。

あからさまに、聖霊によって歩んでいるとか歩んでいないとか、そんな風には書いていませんが、たとえとして、語られているのは事実です。

その一例として、ガラテヤ人への手紙4章を参考にしていただければ、分かりやすいと思います。

 

参照 ガラテヤ人への手紙4:22-28

4:22 そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。

4:23 女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。

4:24 このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。

4:25 このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。

4:26 しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。

4:27 すなわち、こう書いてあります。「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い。」

4:28 兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。

 

皆さまもご存知のように、また、この箇所を読むと分かりますように、アブラハムとサラの間には、ふたりの子どもが生まれました。

イシマエルとイサクです。

そして、23節に書かれているように、イシマエルは女奴隷によって生まれました。

更に、「肉によって生まれ」とありますように、御霊によって生まれたのではありませんでした。

聖書で言われている「肉」とは、「罪」とか「もともとの性質」とか、そういった意味合いがあります。

また、「肉の思いは死」であるとか「肉の思いは神に対して反抗する、神の律法に服従できない」とか、そんな風に言われています。

「奴隷」という言葉にも語りかけがあります。

「奴隷」とは、罪の奴隷のことを言われています。

ゆえに、イシマエルは、神の国を相続することができませんでした。

しかし、一方、イサクは、天の御国を相続しました。

自由の子、すなわち、罪の奴隷から解放されて御霊によって歩んだので、入るべきところに入ることができたのです。

このことは、ひとつの型であり、クリスチャンへの語りかけでもあることをご理解いただきたいと思います。

同じクリスチャンであっても、イシマエルとイサクのように、歩み方次第でまったく結論が変わってくるということを、ぜひ、ご理解いただきたいと思います。

肉、すなわち、罪によって歩むなら、天の御国を受け継ぐことは出来ません。

具体的には、どういうことかと言いますと、神様にほとんど祈らずにクリスチャン生活を送るということです。

祈らないということは、神様の声を聞かずに、あるいは、神様の声をほとんど無視して、自分の思いや考えを優先する歩みで信仰生活を終わらせてしまうことです。

しかし、一方、御霊によって歩むなら、天の御国の相続人になれます。

具体的には、どんな些細なことでも神様にお祈りして、聖霊の声に聞き従って歩んでいくことです。

ぜひ、御霊によって歩み、天の御国を受け継いでいきたいと思います。

 

聖霊により頼んで歩んでいくということは、生きながらえている間、私にとって、これから先もずっと、課題になっていくと思います。

気が付くと、どこかで、人間的な常識や考えや判断に頼っているなぁと思うことが相変わらず多いからです。

でも、聖書に書かれているように、主にすがっていくときに、神様から、正しい方向性を指し示していただいたり、軌道修正していただいたりして、何とか、主の言われている道を辛うじて歩んでいけるのだなぁということを、体験させていただいています。

まだまだ、心の内側には、「自我」というのが根付いていますが、日々の祈りの中で、聖霊の力に触れていく中で、わずかずつでも、打ち砕かれていかれたらなぁと思います。

そして、最終的には、すべてのことを神様により頼んで、聖霊さまの力によって支配されていきたいと、そんな風に思います。

本日も、大切なことを語ってくださった神様に栄光と誉れがありますように。