聖書箇所 コロサイ人への手紙2:8

 

2:8 あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。

 

「この世のものは聖霊の働きを妨害する」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

 クリスチャンであっても、たしかに私たちはこの世において生活しています。ですので、この世のものも用いています。食べなければ餓死してしまいますし、教会へ行くのにも距離があるなら交通機関を利用します。住居、着るもの、食べるものをはじめ、このようなものは地上で生きていくうえで不可欠なものです。しかし、それはそれとして・・・あまりにも世の中のことに深入りしてしまうことにポイントはありません。上記御言葉にありますように、哲学をはじめ、学問、流行等は、キリストから出たものではなく、この世から発したものです。「キリストに基づくものではない」とありますように、こういったものはすべて、この世の支配者であるサタンから出たものなのです。

 

「哲学」とか「学問」を追及して何が悪いのか?と、おっしゃる方もおられると思います。もちろん、これらのものは人間的見て、道徳観を損なうものでもありませんし、人を傷つけるものでもありませんし、一見、何ら問題が無さそう見えますよね。以前の私も、クリスチャン生活を送りながらも、同時にこういったことを追求することについて何も疑問を持ったことはありませんでした。特に人に迷惑をかけたり、法に触れることでないのなら、どんなことでも良いのでは?と、思っていました。もちろん、聖書には「すべてのことは許されている」と書かれています。でも、その直後には「しかし、すべてが益になるわけではありません」とあって、それに続いて「しかし、私はどんなことにも支配されません」とあります。これらのことばは、パウロが言われたことです。神さまは私たちの自由意志をどこまでも尊重されるお方ですので、すべてをお許しくださいます。かと言って、御言葉にもあるように、すべてのことが益になるか?と言うと、そうではないのです。そして、それに続いてパウロが言われている「私はどんなことにも支配されません」のことばは、私たちが益にならないようなことに支配されていくときに、キリストの支配から離れていくと、そのようなことを言われているように思います。この世において何ら問題がなく、いいえ、哲学や学問のように、むしろ良いものとされているものですら、じつは神の前にはまったく価値が無いという概念については正しくとらえておきたいと思います。なぜなら聖書にハッキリと「幼稚な教え」だと書いてあるからです。

 

そして、もし私たちがそのようなものを執拗に追い求めたり、比重を置いていくときに、神さまが言われている歩みや働きから大きくズレてしまうのです。ここでは哲学のことが一例として挙げられていますが、そればかりではありません。ビジネス、交友関係、今流行りのファッションなど、挙げだしたらキリがありませんが、そういったものにグーッと引っ張られていくときに、聖書のことばがどこかボヤけてしまったり、飛んでしまったりして、結果としてまったく別のものをつかんでしまったりする可能性があるのです。否、恐らく、そのようになっていくと思います。仮に、毎週欠かさずに礼拝に出席していたとしてもです。どんなに良いと思うものであっても、やはり、この世のものは、この世のものに過ぎず、神さまの前には何の役にも立たないのです。いいえ、そればかりか、本来、神さまが語られている歩みや働きを妨害してしまうのです。そして、最悪、神さまから怒りを買う可能性もあるのです。ちなみに箴言にこのような御言葉があります。

「主の前では、どんな知恵も英知もはかりごとも、役に立たない」と。

 ふと、改めてこの御言葉を読んでみると、とてもシビアなことが書かれているなぁと思わなくもないのですが、神さまが言われていることですので、その通りなのだと思います。また、イエスさまはパリサイ人や律法学者に対して「彼らがわたしを拝んでもむだなことである。人間の教えを教えとして教えているだけだから」と言われました。そう言われてみると、思い当たらなくもないことがあります。それは、以前行っていた教会でのことですが、集会のときに牧師が婦人方に、「家の中はいつもきれいにしましょう。家の中が汚いとサタンが入ってくるから。朝起きたら、まず家の掃除をしましょう。それから聖書を読んだりお祈りをしましょう。」とおっしゃっていました。そのときは、牧師が言うことだからそうなのかなぁとも思いましたが、冷静になって考えてみると、前半で言われた言葉は、これって世の中の人が言うことと、さほど変わらないのでは?と、思いました。もちろん神さまを知らない未信者の人たちはサタンのことなんて知らないかも知れませんが、家の中をきれいにするというのは、この世の単なる常識だと思います。たしかに散らかっているよりかはきれいなほうが良いのかも知れませんが、信仰とはあまり、と、言うか、ほとんど関係がないのでは?と、思います。それよりも、そんなことばかりにとらわれて、祈る時間や聖書を読む時間があまり取れなくなってしまうことを心配したほうが良いのでは?と、思うのですが、いかがでしょうか?イエスさまもパリサイ人や律法学者に対して、このようにおっしゃっていましたよね。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。」と。さっきの家の中をきれいにすることと関連するかどうかは分かりませんが、要は、外観ばかりにとらわれて、肝心な心の内側がきよめられなければ意味が無いのだと思います。そう、要するに、人からの教えとか言い伝えとか、そのようなものばかりを強調していくときに、人を真理に導いたり霊的にたてあげたりすることはなく、そればかりか反対に、永遠の命から大きく外れてしまう可能性があるのです。そういったことに関して、本日の御言葉は語っているのでは?と、思います。ですから私たちはそういった罠に陥ることのないように気をつけなければいけません。はじめに申し上げましたように、クリスチャンと言ってもたしかにこの世で生活する者ではあります。しかし、この世に拘泥していくことにはまったく御心は無く、そうしていくときに、永遠の命ではない滅びへの道を歩んでしまうことになるので、よくよく気をつけていきたいと思います。そう、まさに聖書のことばのみに目を留めていくときに、神さまの前に正しい知恵や知識を得たり、人を霊的に正しくたてあげたり、永遠の命へと導くことができるのです。ぜひ、キリストである御言葉に絶えず触れて、どこまでもとどまり続けていきたいと思います。

 

 私の証ではありませんが、以前行っていた教会の方が皇室に招かれたことについて証をされていました。皇室の御一家と共に、会食の時をもたれたことについて語っておられました。でも、その方は証の最後にこのように言われました。「たしかに、皇室に招かれたことはこの世的には尊いことかもしれません。でも、神さまの前には、まったく価値の無いことです」と。そのことばを耳にしたときに、「うんうん、そうだ!」と、思いました。普通、そういったチャンスはほとんどの人には無いのですが、その方が何かのご縁で特別にそのような招きにあずかったわけですが・・・ではあっても、神さまとは何の関係も無いことだとおっしゃったことは、正しいと思いました。普通に話だけを聞くと、誰もが「すごいっ!!」と思うことなのですが、でも、神さまの前に価値が無いなら、それこそ本日の御言葉にもあるように、「むなしい」の一言で終わってしまうのでは?と、思います。証を聞いてからずいぶん時を経ていますが、その方が語られた最後の一言は、今でも私の心に強く焼き付いていますし、信仰生活のあり方について教えられた出来事でした。メッセージでは、色々と書き連ねてしまいましたが、私自身もちょっとでも気をゆるすと、いとも簡単にこの世の価値観に引っ張られていきそうになりますので、気をつけていきたいなぁと思います。本日も大切なポイントについて語ってくださった神様に栄光と誉れがありますように。