聖書箇所 コロサイ人への手紙3:25

 

3:25 不正を行なう者は、自分が行なった不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。

 

「報いをされる神」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

 上記御言葉はまさに文字通り、私たちが不正をおこなうならそのことに対しての報いを受けることについて言われています。「それには不公平な扱いはありません」と書かれているように、悪いことに対しての裁きが神によってきっちりとおこなわれるということが理解できます。

 さて、この世においては、もし万一、刑法に関わる罪を犯したとしても、何とかバレずに一生うまくやり過ごすということもあり得るかもしれません。ゆえにこの言葉は、この世においてもそうかも知れませんが、比較的、後の世においてその人の上に成就していくのではないか?と、思います。世においても悪いことをすれば、裁判で判決を受けることは多々あるかも知れませんが、さきほど言ったように、もしもバレなければ、それっきりです。

 でも、残念ながら神さまの前には、そうはいかないのです。ちなみに「不公平な扱い」のところは、KJV訳では「えこひいき」と書かれています。この言葉で、なんとなくこんな御言葉を思い浮かべないでしょうか?

 

参照 ガラテヤ人への手紙2:6

2:6 そして、おもだった者と見られていた人たちからは、彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。

 

 そう、神は分け隔てすることなく、すべてにおいて公正なお方なのです。そして本日のコロサイ人への手紙の御言葉ではありませんが、それこそ私たちがこの世での生涯を終えたら、その公正な神さまによって、キリストの裁きの御座において、地上でどんな風に過ごしたか?についての「精算」がおこなわれます。それも、一切の分け隔てもえこひいきもなく、です。

 「不正」に関してですが、一見、この世の人、すなわち未信者のことだけを言われているようにも思えてしまうのですが、同章の前節には「あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」と書かれています。言うまでもありませんが、「御国を相続する」のは、この世の未信者ではなくクリスチャンですよね。その言葉に続いて、「不正を行う者~」という記述があるので、このことに関しては恐らく未信者のことだけではなくクリスチャンのことも含まれると思います。たしかに24節に書かれているように、きちんと主に仕えていくのなら「天の御国を受け継ぐ」というのは、一面事実なのですが、しかし25節に書かれていますように、クリスチャンであっても「不正をおこなう」のなら、なおかつ、それに関して悔い改めずに世を去っていくのなら、「不正の報いを受ける」という御言葉が、そのまま成就してしまいます。

 

 ところで、そう、最近、礼拝のメッセージでこのようなことが語られていました。エペソ人への手紙の1&ヨブ記の25章を通してですが、クリスチャンであってもイスカリオテのユダやパリサイ人や律法学者のように不従順だとサタンに悪いように用いられるということと、神に仕えていくことにおいてどこまでもお一人一人の自由意志が尊重されるということを教えていただきました。そして、これらのことは、私自身は1セットなのでは?と解釈しました。さらに、「ただしそれらに関してはすべて結果を刈り取る」ということをエレミヤ牧師がおっしゃっていました。そのことを聞いて、わたしはまったくその通りだと思いました。

 

 この世の事柄においてもそうかもしれませんが、ひとつひとつのことには必ず「結果」というものがついてきますよね。たとえば、中間テストが1週間後にあるとして、ある学生は良い成績を残すために一生懸命勉強をして良い点数を取ります。一方、テストの直前になっても教科書もノートも一切開かずに、テレビを見たり漫画を読んだりすることに明け暮れている学生がいるとします。そんな風に遊んでばかりいたら、ろくに点数も取れず、最悪留年させられる、なんてことにならないでしょうか?

 そのようなことと比較して良いかどうかは分かりませんが、私たちクリスチャンの信仰生活というのは、「神さまの前の試験のとき」もしくは「イエス・キリストの花嫁になるための準備期間」、もっと言うなら、永遠の命を得るか否か?という試しの時であるという一面においては、よくよくとらえておいたほうがいいと思います。後の世が「本番」であるということが、レムナントのメッセージの中において強調されていますが、今はいわば本番のための「リハーサル」のような時であるということを理解しながら歩みをしていくことをおすすめいたします。また、私自身もそのような視点や志で日々、歩みができるように祈り求めていますし、心がけるように努力させていただいています。こういったことは、クリスチャンの間ではあまり言われていないことだと思いますし、ほぼ認識もないかも知れませんが、聖書では「試練」という言葉がところどころ使われていますし、その意味合いとしては、そういった中にあってもなおかつ主に仕えていく人が勝利(永遠の命)を得ていくということについて言われていますので、よくよく覚えておかれるとよいと思います。イザヤ書においてキリストご自身も、「試みを経た石」と言われていますし、実際にイエスさまは生涯そのように歩まれました。十字架の苦難をも経て、耐え忍んで、最後まで神さまに従い通してみごとに栄光を受け、神の右に着座されたのです。ですから、私たちもこのような主の歩みに倣っていきたいと思います。

 

 先に申し上げましたように、たしかにこの世においては悪いことをしても、罰を逃れたりごまかすことはできるかもしれません。「不正」というと、少し抽象的な表現なので一例を挙げるなら、「艱難は通らずにクリスチャンはその前に皆、携え挙げられるから備えは必要無い」というようなことかもしれません。こんな風に御言葉を曲げたとして、人をうまく騙すことはできるかもしれません。でも残念ながら、神さまを侮ることはできません。人受けが良く、耳障りも良い、だから教会に沢山人が来るし、こういうことを言っておけばクリスチャンになる人も多いからいいのでは?と、思うかも知れませんが、そういうことに関して、神さまは仮に今の世ではそうではなくとも、後の世において必ず裁きをされますので、くれぐれも神さまを恐れて御言葉を取り扱ったり歩んでいったりすることをおすすめいたします。ある意味、今の世はサタンが王なので、この世は、はたまたキリスト教会においても不正や騙し事を益々迎合していく方向になっていくと思いますが、そういったことに関して、きちんと報いをされる神であるということに恐れを持っていくことをおすすめいたします。こういった点に関してもぜひ、見ておいていただけたらと思います。

 

 聖書において、善であれ悪であれ、蒔いたものは必ず刈り取るという原則があることがところどころ書かれてあることを教えていただいているので、このことには恐れを持って歩むように心がけています。

 が、しかし、分かっていても、肉に蒔いてしまうということも度々あります。そしてそれが、実際の行動として時として「罪」に発展してしまうことがあります。そんなときに、神さまが愛をもって、色々な方法を通して叱責を与えてくださったり、体に鞭を打って教えてくださることもあります。そういうことを通して、肉に蒔いたり、罪に発展してしまったり、まあ、そこまでは、何とかまだゆるされるのかも知れませんが、ただし、そのことをいつまでも放置して、きちんと悔い改めないとき「滅び」に入っていくことの恐ろしさを神さまは語っておられるのでは?と、思います。地上では、やり直しがきくかも知れませんが、しかし、後の世に行ってしまってからでは、一切修正がきかないので、主から何らかの方法で誤りを示されたときには、頑なにならずに素直に応じていかれたらなぁと思います。また、霊的に今の時代を正しく見るなら、残念ながらキリスト教会はあきらかに背教に向かっていますが、それに反して益々お祈りを強めたり御言葉を読んだり神さまの働きに熱心になっていかれるように祈り求めていきたいなぁと、そして良い報いだけを得ることができればなぁと、本日の学びを通してそんな風に思いました。本日も大切なことを語ってくださった主に栄光と誉れがありますように。