聖書箇所 コロサイ人への手紙4:3,4

 

4:3 同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。

4:4 また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。

 

「奥義をきちんと語れるように祈り求める」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

まず、「奥義」という言葉について少し話したいと思います。

以前から話していますように、聖書の言葉は、文字通り理解するいわば「表」の部分と、謎と呼ばれる「裏」の部分があります。後者の「裏面」のことを「奥義」と呼んでいます。ちなみに「奥義」とはKJVでは“mystery”と訳されています。ご存知だと思いますが、“mystery”とは「不可思議、神秘、秘密」という意味です。つまり、聖書の中には、神さまの「秘密」が隠されているのです。そして詩篇には、このような御言葉があります。

 

「私はたとえに耳を傾け、立琴に合わせて私のなぞを解き明かそう。」(詩篇49:4)

 

また、「なぞ」という言葉に関して民数記には、「彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている」と書かれています。民数記の言葉は、神さまがモーセに対して言われたことです。ここで言われていることは、パウロとかモーセのように、主が「この人に!」と、思われた方に、神さまは「奥義」、すなわち謎や秘密を解き明かしてくださるのです。そうなんです、たしかに神さまは奥義を隠される方ではありますが、だからといって、いつまでも、もしくは永遠に隠しておこうとは思っておられないのです。このことは最近礼拝のメッセージで教えていただいたことなのですが、モーセやパウロの時代だけでなく、今の時代においても神さまの時に、ありとあらゆる御言葉の奥義、今で言うなら終末の奥義が開かれていくのです。しかも神さまが、「この人に示そう」と、そのように思われた方を通して、です。誰に対しても、要は万人に開かれるわけではなく、神さまがお選びになった人に、です。私の想像なのですが、恐らくその基準は、奥義が示されたときにそのことを忠実に語っていく人に最初に示されていくのではないか?と、思います。

 

手前味噌でとても恐縮なのですが、レムナントキリスト教会は、10年以上前から終末の預言に関してホームページや礼拝のメッセージやセミナーのメッセージ等を通して語っています。たとえば、「奥義」に関して、ほんの一例を挙げるなら、終末の獣の国がアメリカであるとか、黙示録に書かれている「淫婦バビロン」とはアメリカのこととか、アメリカすなわちバビロンの教理の問題点は災いに関してほとんど語らないために多くのクリスチャンの永遠の命が危ない等です。そして今もなお、終末の啓示や御言葉のたとえの意味合いに関しての解き明かしをしています。とても感謝なことに、神さまが今でも奥義を開いてくださっているのです。それはきっと、神さまが語ってくださったときにその都度御声に応答して周囲のクリスチャンに伝えていったからなのではないかなぁ?と、思います。もし聞いても、伝えていくという働きをしなかったら、別の教会に示されていったのでは?と、思います。別にこのことを自慢したり誇らしげに語ることが趣旨ではないことをどうかご理解ください。奥義を示してくださっているがゆえに、レムナントキリスト教会は益々神さまを恐れてへりくだって歩みや働きに徹していこう!という志で、尚々この一事にわずからながらも励んでいきたいと願っています。

 

申し上げたいことは、「奥義」が示されたときに、どんな風に対応するか?ということは、とても大事だということなのです。そして残念なことに、「奥義」に対してまじめに向き合っているクリスチャンが、とても少ないのが現実です。そもそも、「奥義」は求めていかなければ開かれないのですが、求めるということすら、時として異端視されてしまうことさえあります。多くの教会や神学校においては、「聖書は霊的に解釈すべきではない、文字通りに読めばそれでよい」とされているからです。

 

私個人の意見で恐縮なのですが・・・神さまは「霊」のお方ですよね。なので私たちが神さまを理解するには「霊的」にさとくならなければ、神さまのことをまったく理解できないと思うのですが、これっておかしいですか?反対に「霊的に解釈しない」というほうが、無理があるのでは?と、思うのですがいかがでしょうか?私たちがいつも霊的に目覚めていなければ、神さまとの正しい関係を築くことは不可能なのでは?と、思うのですが、このような意見や考えもとっぴでしょうか?偉そうな言い方で恐縮ではありますが、「霊的」なことを抜きにするのなら、クリスチャン生活とかクリスチャン本来の歩みや働きというのは恐らく成立しないと思います。いくら何年、何十年と教会に通い続けていたとしても、です。ですから、もし、聞く耳をお持ちでしたら、聖書の「奥義」ということに、ぜひ目覚めていただきたいと思います。そうでないと、御言葉が語っているもっとも肝心なことを理解しないまま、クリスチャン生涯を終わらせてしまうことになるからです。そして、それだけで済むのならよいのですが、「奥義」を悟るか否か?によって、永遠の行き先にまで影響を及ぼしてしまいますので、まずはぜひ、悟っていくことができるように祈り求めていきたいと思います。

 

さて、説明が少し長くなってしまいましたが、本題に入りたいと思います。

3節では、パウロは奥義のために牢に入れられていると書かれています。こちらの訳も英語を見てみたのですが、「牢」と書かれているところは、“bonds”という言葉が使われています。「束縛」とか「公債」という意味合いがあります。「公債」という言葉で思い出す御言葉があります。それは、パウロがローマ人への手紙の中で語られた言葉です。「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」と、パウロは語っています。ここでは「負債」という言葉が使われています。何の「負債」か?と言うと、そのあとの御言葉を読むと分かるのですが、「福音」に関する負債です。「福音」とは、要するに命に至る道へのメッセージ、すなわち「警告」のことです。要は、御言葉の奥義や啓示に関する負債、借金をパウロは神さまに対して負っていると、そのように理解できます。

 

本日のコロサイ人への手紙においても、まさに同じようなことを言われていることを理解できるかと思います。ゆえにパウロは、コロサイにいるクリスチャンに、「奥義を語れるように祈ってください」と、さらに「はっきり語れるように祈ってください」と言葉を付け加えてお願いしているのです。そう、奥義について神さまから示された以上、自分には語る義務がある!と、そのようにパウロは思い、そのことを実行に移すことを決意されたのです。このようなパウロの態度や姿勢を、私たちも模範にすべきなのです。なんらかの方法で、たとえそれが人を通して知ったことであったとしても、神さまから「奥義」を示されたのなら、そのことを内にとどめずに、どんどん語っていくようにしていきたいと思います。場合によっては反発されることもあるでしょうし、拒否されてしまうかも知れません。ではあっても、機会があるごとに、そのことをおこなっていって欲しいと、神さまは望んでおられるのです。

 

ですからパウロだけが語っていればそれでいい!なんて、思っていてはいけないのです。あるいは、レムナントに示されているんだから、そこにいる人だけがやればいい、私になんて関係ないなんて思っておられるのでしたら、それは間違いです。他のことはともかく、たしかに終末に関して言えば、今のところはレムナントにはじめに示しが与えられているかもしれませんが、それはたまたまレムナントがそういう召しに召されているというだけであって、いわば、とっかかりに過ぎないわけであって、そこを起点としてあちこちにこのことが伝えられていくことに御心があるのです。極端なことを言ってしまえば、どこの教会の誰が選ばれたか?にあまりポイントはなく、要は「奥義」を聞いたときに、どのように対応していくか?が大切なことなのです。一番に示されたとか、二番目に聞いたとか、大分遅れてから知ったということには、まったくとらわれないほうがいいと思います。それよりも何よりも、受けた時点でどうするか?と、いうことをまじめに考えてください。そして、ぜひ正しく判断をしていただきたいと思います。

 

 そして、もしパウロのように「奥義」を語っていきたい、わずかでも伝えていきたい!と、思われたのでしたら、ぜひ、そのようにお祈りしてみてください。示されて聞くこと、そして、語っていきたい!という志が与えられたこと、それはいずれも神さまの前にとても尊いことなのですが、しかし、それだけでは不十分です。どんなことでもそうですが、いつも申し上げていますように、「祈り」が必須なのです。そのことで、パウロは自分自身でも、かなりお祈りをしていたと思いますが、人々にもお願いしていたくらいですので、特に「奥義」を語るということに関しては、「祈り」にとてもポイントがあるということが理解できます。なぜかと言うと、はじめに申し上げましたように、多くのクリスチャンが「霊的な解釈はよくない」と言っているように、「奥義」というのは、かなり受け入れられづらいものだからです。

 

それから「祈り」に続いて、「御言葉の読み込み」もきちんとおこなっていきたいと思います。「奥義」を語る際に、1箇所の御言葉だけでなく、あちこちの御言葉を参照していくことが往々にしてありますし、御言葉に基づいて語ったり論じたりしていくときに人々に理解や納得を与えていくからです。

 

以上のことを実践していくときに、語るべき方法や機会や言葉や知恵等が、神さまによって与えられていきますので、このことを信じて実践していきたいと思います。きちんと語っていくときに、場合によっては今まで耳を貸そうとしなかった人々が、徐々に耳を傾けてくださるなんてこともあるのでは?と思います。イザヤ書には、神さまの思いは私たちの思いよりも高いということが書かれていますが、こういったことをきちんと実践していくときに私たちの思いや願いをはるかに超えたみわざを神さまは成してくださるのでは?と思います。それから御言葉にも、「求めなさい。そうすれば与えられます」とか「たたきなさい。そうすれば開かれます」と書いていますので、奥義をきちんと語れる機会が与えられることを信じて祈り求めていきたいと思います。御心に叶う祈りはどんなことであれ、答えてくださる神さまですし道を開いてくださいますので、ぜひぜひ、そうしていきたいと思います。

 

また、もうひとつだけ申し上げたいのですが・・・それこそパウロがはっきりと語れるように祈ってくださいということをお願いしていますように、私たちもそんな風に、パウロのような働きを担っている人たちが、奥義が開かれてきちんと語っていくことができるように、そういう人たちのためにちゃんととりなしていきたいと思います。いわばお祈りを通して、働きの一部にあずかっていくということです。たとえ直接的に語る機会がない場合でも、こういったことを実践していくときに、間接的に奥義を語る働きに携わっていくことにつながりますし、神さまにもそのように見なしていただけますので、その点についても正しくとらえていきたいと思います。

 

繰り返すようですが、せっかく「奥義」が示されたのでしたら、隠し込んでしまうことなく、ぜひ周囲の人々、こと、クリスチャンに対しては何らかの機会を用いて、お知らせしていきたいと思います。たとえどんなに小さなことであったとしても・・・神さまは忠実に報いてくださいますので、ぜひおすすめいたします。

 

私自身も、礼拝のメッセージ等を通して、あらゆる「奥義」を教えていただいていますので、わずかながらもお伝えすることができるように、神さまに祈り求めています。そうすると不思議なことに、本当にごく稀なのですが、神さまがチャンスを与えてくださいます。

 

「奥義」と、そこまではいかないことであっても、メッセージで教えていただいたこととかを未信者の人たちに伝えることができたりします。また、それこそたまにではありますが、クリスチャンに、「奥義」について話をさせていただくこともありました。語りながらも、嫌がられたり拒否されたりするのでは?というナーバスな思いが内側にこなくもなかったのですが、意外や意外、「とても為になった」とか「大事なことを教えられた」とおっしゃっていただいたこともあります。いえ、むしろ神さまの導きで語らせていただいているためでしょうか、今のところ、数少ない機会の中でもそういった良い反応のほうが比較的多いです。

 

でも、時には・・・最近のことですが、何人かのクリスチャンからニュースレターを拒否されてしまいました。ニュースレターの中にも今まで隠されていた多くの奥義が語られていると思うのですが、皆が皆、受け入れるわけではないのだなぁということを感じました。ただ、そうではあっても、たとえ少数であっても、聞いてくださる方のためにほんのわずかであっても奥義を語っていくことができるように、これからも祈り求めていきたいと思います。本日も大切なことを語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。