聖書箇所 テトスへの手紙2:5

 

2:5 慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。それは、神のことばがそしられるようなことのないためです。

 

「どこまでも従順に」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

以前、ピリピ書において、「服従を喜ぶ神」というテーマでメッセージをさせていただいたことがあったかと思いますが、今回も同じような示しを受けましたので、重ねて話をさせていただきたいと思います。「何度も同じことを言うな!聞き飽きたよ!」と、おっしゃるかも知れません。私個人も、そのような気持ちがなくも無いので、そうおっしゃることはよく分かります。ただ、最近、礼拝のメッセージで教えていただいたことなのですが、パウロは大事なポイントに関して、手間隙を惜しむことなく何度も繰り返して語りなさいということを言われているので、私自身も、多少なりとも、そういったことに準じていけたらいいなぁと思うようになりました。一応、参考までに、そういったことを語っている御言葉を紹介しておきます。

 

参照 ピリピ人への手紙3:1

3:1 最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。

 

さて、冒頭の御言葉において、“従順”という言葉が使われています。たしかにここでは、婦人の従順に関して語られています。一面、そのことも言えます。と、同時に、再三申し上げていますように、聖書の記述の多くには、奥義やたとえといった類のことが隠されています。ここにおいても何か隠された意味合いというのがあるように思います。「慎み深く、貞潔」であること、このことは女性のクリスチャンだけでなく、男性のクリスチャンにも該当します。なぜかと言うと、男性のクリスチャンも、いずれ、“キリストの花嫁”になるからです。神の前に、こと、霊においては、男性、女性の区別はないのです。「じゃあ、家事に励みって書かれているけど、これは何なの?」と、おっしゃるかも知れません。そうですよね、一般的に結婚した場合、男性が外に働きに出て、奥さんが家事をしますよね。もちろん女性が収入を得て、男性が家事をする、そんなご家庭もあると思います。でも一般論において、家事と聞けば、男性の出番はあまり無いと思うのが、この世においては常識的な考えでしょう。それはそれとして・・・「家事」という言葉に関しても、たとえの意味合いがあるように思います。「家」という言葉ですが、聖書において、「教会」にたとえられています。料理を作る、掃除や洗濯をする、それらも立派な家事ではありますが・・・「教会」という側面から見ていくと、「家事」とは、「教会の働き」についても、言われていると思います。このことは、私一人がそう思っているわけではなく、共に弟子の歩みをしている方も、おっしゃっていたことです。また、「夫」という言葉にも語りかけがあります。表の意味合いとして、実際の夫、家のご主人のことも言われています。ただ、先ほど申し上げましたように、クリスチャンは男女問わず、キリストの花嫁にたとえられていますので、ここで言われている、「夫」とは、キリストのことも指すと思われます。そのように考えていくと、家事、すなわち教会の働きに励んでいくことに関して、男女の差別が無いことが理解できると思います。

 

説明が長くなってしまいましたが、申し上げたいことは、冒頭の御言葉は、女性のクリスチャンだけでなく、男性のクリスチャンにも当てて、言われているということです。そう、そして特に、“従順”という言葉に目を留めていただきたいと思います。奥さんが御主人の言うことに従順なる、このことも大切です。しかし、その前に、何よりも、私たちクリスチャンの霊の夫である「キリスト」の言うことに従順になることは、もっとも大事なことです。じゃあ、旦那の言うことは聞かなくてもいいんだぁーと、言われるかも知れません。いえいえ、そうではありません。要は、キリストの言うことに従順になるときに、自ずとご主人に対しても従順になっていくのです。ご主人だけではありません、ご両親、牧師、学校の先生、会社の上司等、あらゆる権威ある立場の人たちに対して、特別努力なんてしなくても、ごくごく自然に、何の違和感もなく、従順になっていくのです。どうでしょう?すばらしいことではありませんか?もし、本当にそのことを望み、実践するとしたら・・・です。そして、従順になるときに、どんな良いことがあるのか?と、言うと、まず、神様がそのことをお喜びになります。神様との間に、常に平和が保たれます。それだけでなく、内側がいつも喜びや平安で満たされます。「神様に仕えていきたい!神様に喜んでもらいたい!神様が喜ぶことだけを行っていきたい!」と、そんなことばかり、常々考えるようになります。その結果として、神様から愛されます。祝福と恵みに満ちた生活を送れます。神様の御心に叶うことをお祈りするようになるので、お祈りにもどんどん答えられます。要するに、いいことづくしなのです。また、悪い御使いに、模範を示すことにもなります。悪い御使いとは、悪霊、サタンのことですが、彼らは反逆者なので、“従順”を極度に忌み嫌います。彼らの仕事と言えば、クリスチャンに害を加えて永遠の命を奪うことですが・・・彼らのあらゆる企みは、私たちが神の前に従順でいるときに、いずれ形勢が変わってきます。そう、従順なクリスチャンには、思うように攻撃ができなくなるのです。それこそ御言葉に、「神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」と書かれています。私たちが、人を通して嫌なことをされたり、言われたりしたときに、言い返したりせずに、反対に祝福を祈ったり良くしたりするときに、敵の企みは思いのほか、あっさりと打ち崩されてしまうのです。“従順”によって、敵の攻撃範囲を狭めたり、とどめたりすることができるのです。

 

以上は、私たちが“従順”になった場合についてですが、反対に、私たちが、“従順”ではないときに、どのようなことが起こるのか?について触れてみたいと思います。ちなみに、聖書で言う、「異端の教理」とは、良いこと、つまり恵みや祝福だけを語って、もう反面の呪い、すなわち裁きに関して言わないということですので、もし、示されたのなら、そのこともきちんと話したいと思います。今回、少し示されたので、早速、話したいと思います。従順の反対は、“不従順”ということですが、最後まで“不従順”だと、どうなるのか?それに関する御言葉が、いくつかあるので見ていたいと思います。

 

参照 へブル人への手紙4:611

4:6 こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから

4:7 神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。

4:8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。

4:9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。

4:10 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。

4:11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか

 

参照 へブル人への手紙11:31

11:31 信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました

 

下線を引いた部分では、不吉なことが言われています。いずれも、“不従順”だと、滅びることが分かります。「未信者は当然だよね、でも、クリスチャンには関係ない!」と、思われる方が多いと思います。たしかに、この世の神様を拒否している未信者が、もし、そのまま世を去るなら、たしかに裁かれる、これは事実です。でも、6節の御言葉を注意深く読んでみてください。「不従順~」の言葉の前に、「前に福音を説き聞かされた人々」と、書かれています。基本的に、「福音」を聞くのは、この世の未信者ではなく、クリスチャンですよね。そもそも、未信者は教会に行くことも、自らの意志で、メッセージを聞くことも、ほぼ、ないですよね。ですから明らかに、この御言葉はクリスチャンのことを言われているのです。クリスチャンの中にも、“不従順”と言われる人たちがいて、そういう人の裁きについて、この箇所では語られているのです。そして、残念ながら、そういう人たちのほうが、多いのでは?と、思います。なぜ、そんなことが言えるのか?と、言うと、すでにパウロの時代から「多くの人がキリストの十字架を敵として歩んでいる」と言われているからです。初代教会の時代ですら、そのように言われていたのですから、今の時代、すなわち終末はさらに拍車をかけて、そうなっていくと思います。なぜなら、終末に背教が起こることや、惑わす力が送り込まれることや、人々の愛が冷えていくことについて聖書に、はっきりと書かれているからです。話はズレましたが、“不従順”だと、滅んでしまうということは、きちんととらえておいてください。6,11節に「安息」という言葉が使われています。皆さんも御存知のように、「安息」は、7日目を指します。どこかの箇所に、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」と、書かれているように、天地が創造されてから、6日間、つまり6千年が経ち、今は、7日目、すなわち私たちは7つ目のミレニアムの時代にいるのです。また、7日目は、御言葉の冒涜の時、つまりおかしな教理が蔓延する時代でもあります。色々と例を挙げ出したらキリがないのですが、地獄は無いとか艱難の前にクリスチャンは挙げられるとか神はどこまでも愛だからクリスチャンは裁かれないとか、聖書に書かれていないことばかりが教会で語られている時代です。いくら牧師が語っているとはいえ、そんな流れに沿っていくなら、明らかに滅んでしまいます。そんな中にあって、例外的に正しく歩んでいかなければいけない時代にいるということは、よくよく認識されておいてください。たとえ、周囲がどんなに変質したとしても、御言葉が語っていることに、私たちはどこまでも従順になっていきたいと思います。天地が滅んでも、御言葉は変わりませんので、そのあたりのことに比重を置いて歩んでいきたいと思います。“不従順”な人たちと、共に滅びることのないように、気を付けていきたいと思います。

 

繰り返しますが、“従順”になることが、天の御国を受け継ぐためのひとつのキーになっていくことは、ぜひ、覚えておいていただきたいと思います。ある意味、世の中は、“不従順”だらけかも知れません。親や職場の上司や学校の先生に逆らったり、言うことを聞かなかったりと、そして、そういうことがまかり通っている時代であります。でも、“不従順”なのは、この世の人たちだけでなく、クリスチャンやキリスト教会も、そういう流れになりつつあることは、正しくとらえておいてください。どちらかと言えば、長老や指導者や牧師を敬わない、反発する、それどころか、教会から追い出すなんてこともあって、現実は、そんなことがキリスト教会で起きているそうです。なぜ、そんなことが起きてしまうのか?と、言うと、ズバリ、神に対して、“従順”でないからです。分かりやすく言うと、御言葉に従わないからです。もちろん、人間の本質というのは、サタンと同様、「逆らう者」ではありますが、決して良いことはありませんので、もし、不従順になっているなぁとか、なってしまったなぁと思ったら、直ちに悔い改めていきたいと思います。野放図にするなら、いくらでも、“不従順”になります。あるいは、何も努力なんてしなくても、“従順”になろうと祈り求めたり、特別に意識しないのなら、いとも簡単に、あっという間に、“不従順”になってしまいます。そう、不従順になりやすいということを前提に、日々祈り、御言葉を読み、歩みをしていかなければ、なかなか、“従順”にはなれないという、一面もよくよくとらえておきたいと思います。こういった面に関しても、みておいていただけたらと思います。

 

上記メッセージは、私も決して他人事ではありません。生まれつきの性質は、どちらかと言えば、いえいえ、十二分に、“不従順”な者です。なので、くれぐれも気を付けていかなければ、と、自分自身に、いつも言い聞かせています。

 

ところで、大分前に、ある人がこんなことを話していました。女性のクリスチャンの方ですが、その姉妹は、派遣社員として某企業で働いていたそうです。その姉妹と同じ部署に、他にも何人かの派遣社員の方がいたそうです。有給休暇を取るのが困難なほど、お仕事のボリュームは多く、大変だったそうです。しかし、派遣社員を雇っていた社員は、「一切、残業はしないように、業務は時間内に終わらせるように」という、おふれを出していたそうです。もちろん姉妹は、その言葉を堅く守り、なんとか時間内に仕事を終わらせて、帰宅していました。しかし、何人かの派遣社員の人は、そのことに聞き従わずに残業をしていたそうです。そのことで、何度か注意を受けたこともあったそうですが、言うことを聞かなかったみたいです。そんなある日、契約の更新の一ヶ月前になって、残業をしていた人たち全員に対して、「来月までで、辞めてください」と、社員から言われたそうです。姉妹や残業をしなかった人たちには、引き続き残ってくれるよう、お願いしたそうです。その時に、姉妹はこんな風に思ったそうです。「権威に逆らうとロクでもないことになるのよね」と。たしかに聖書には、神様が定めた権威を尊重して従うことについて書かれています。なので、残業をして辞めさせられた人たちは、ある意味、権威を侮ったことになるのでは?と言えると思います。信者であれ、未信者であれ、聖書の言われている法則に従わないときに、その人自身に結果が返ってくるのだなぁということを教えられたように思いました。権威のことは、ほんの一部に過ぎないことですが、私たちが、一事が万事、御言葉に反発していくときに、ロクでもない結果を招いてしまいますので、恐れをもって神様の言うことに従っていくことはとても大事なことだと思いました。諺に、「人の振り見て、我が振り直せ」とありますが、私個人としても、本当に気を付けていきたいと思います。神様に憐れんでいただいて、日々、“従順”な者として歩めるように祈り求めていきたいと思います。本日も、大切なことを語ってくださった神様に栄光と誉れがありますように。主に感謝して。