聖書箇所 テトスへの手紙3:14

 

3:14 私たち一同も、なくてならないもののために、正しい仕事に励むように教えられなければなりません。それは、実を結ばない者にならないためです。

 

「実を結ばせていく」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

冒頭の御言葉で、「実を結ばない者」と書かれているように、神様の働きを担う人において、こういう類の人がいることが分かります。神様の働き人(牧師、教師、伝道師)と聞くと、皆が皆、正しく働きを担っているという風に思うと思います。もちろん、正しく働きをしている方もおられます。しかし、ここの箇所に、「実を結ばない者にならないため」ということが、わざわざ書いてありますので、そうでない人もいるということは、理解されておいてください。

 

ちなみにKJV訳では、「実を結ばない」のところは、“無益の”“無駄な”とあります。同じ神の働きと言っても、まったく益にならない、いいえ、むしろ害になる、もっと言うなら、人を滅びにいたらせる働きがあるということを言われていると思います。そしてそれらは、神様の前に、それこそ“無駄な”働きになってしまうのです。このことは問題です。なぜか?単刀直入に言うと、そういう働きによって、死後、御国を継ぐはずのクリスチャンがそうでないところ、すなわち永遠の刑罰へと引っ張られてしまう可能性があるからです。「そんなオーバーな!変なことを言うな!」と、おっしゃるかもしれません。でも、「実を結ばない」ことに関して、このような御言葉もありますので、参考までみておいてください。

 

参照 ヨハネ15:16

15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます

 

また、本日のテトスの手紙の御言葉は、今の終末の時代に成就しているとも言えます。例を挙げるなら、再三申し上げているように、「地獄は無い」「艱難の前に挙げられる」「セカンドチャンスがある」などと聖書に書かれていないことを唱える働き人です。それだけでなく、今のキリスト教会に起きている、あるいはこれから起ころうとしている「災い」や「問題点」に関して口を閉ざす働き人も、「実を結ばない者」と言えます。たとえば、カトリックの問題点やカトリックを通してのプロテスタントのクリスチャンへの災いに関して語らない牧師や教師やメッセンジャーもそうだと言えるでしょう。建前はいくら「牧師」「教師」「伝道師」と呼ばれていても、こういう類の働き人は、神様の前には、「実を結ばない者」と見なされてしまう可能性があるのです。要は、永遠の命の導き手になれない名ばかりの働き人で終わってしまう可能性があるのです。このことには、まったく御心がありません。

 

それでは、なぜ、そんな風になってしまうのか?また、「実を結ぶ」ためには、どうしたら良いのか?に関して、少し考えてみたいと思います。

 

「正しい仕事に励むように教えられなければなりません」の言葉にひとつのヒントがあります。「正しい仕事」つまり、クリスチャンを永遠の命へと導くための教えを、先の「実を結ばない」働き人は受けていないからです。ゆえに、御言葉がどのように語っているのか?を絶えず、聞いていかなければいけません。単にキリスト教会が、「艱難を通らない」と言っているからと言って、そのことを鵜呑みにせずに、今一度、御自分の目で御言葉を読み、確認し、聖霊にあって正しく判断することが大切です。

 

以前、エレミヤ牧師が、「今の多くのクリスチャンや牧師や教師は聖書から御言葉を学ばずに、教理から御言葉を学んでいる」とおっしゃっていました。そのことに、私も同感です。なぜかと言うと、以前の私自身も、そうだったからです。もちろん、それは間違いですし、大きな問題でもあります。イエス様はこのようにおっしゃいました。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」と。表の意味合いとしては、この地上が滅びたとしても、神のことばは永遠に残るという風に読めます。ただ、裏の意味合いを見るなら・・・「天地」は“教会”のたとえです。そのようにみていくと、教会は間違える可能性がある、しかし、神のことばには間違えがないという風に理解できます。

 

ゆえに、御言葉と牧師や教師が言っている教理がぶつかったときに、牧師や教師の言うことを優先することにはまったくポイントがありません。もし、そうしていくなら、完全にズレていきます。どこまでも間違えた方向に引っ張られていくときに、最悪、永遠の命を失う可能性があるからです。たとえば、モーセの十戒には、「偶像を拝んではならない」とあるのですが、それに反して、「マリヤを拝みなさい」と言われたときに・・・たとえ、法王や神父がそう言ったからと言って、それを受け入れてはいけません。御言葉に従うなら、拝むべきではないのです。そのことで、周囲の人を敵に回したり、最悪、教会から追い出されたりしたとしても、御言葉を死守していくことにポイントがあるのです。

 

ですから、まず、神様のことば、すなわち聖書はどう言っているのか?について、常に焦点を当てていかなければいけないのです。そうしていくときに、何が正しくてそうでないかが分かるようになります。そして、そのことは、「正しい仕事」に、そのまま直結していきます。そうすると、先のように、「実を結ばない者」ではなく、「実を結ぶ者」になっていきます。背信のクリスチャンへの裁きのこと、アメリカ由来のあらゆる嘘・偽りの教理から離れていかないときに災いを招くこと、艱難時代の備えのことなど、実を結ぶ教理、すなわち永遠のいのちにいたることを語るようになります。そのためには、その人自身が正しいことをきちんと教えられなければいけません。もし、聖書を読むことやお祈りすることを怠るなら、あるいは、御言葉よりもどこまでも教理を優先するなら、いつになっても正しい悟りは得られないことはご理解いただきたいと思います。

 

繰り返して言うようですが、御言葉の読み込みとお祈りに、日々、徹していきたいと思います。また、聖書は好きなところや読みやすいところだけをピックアップして読むのではなく、ぜひ、通読をおすすめします。(できれば、年に23回のペースで)。全体を通して、神様が語っていることを少しずつ理解できるようになるからです。

 

そして、Ⅱペテロの手紙にも書かれているように、私的解釈を施すことがないように、気をつけていきたいと思います。原語では、その箇所のみでだけでなく、あちこちを参照しながら解釈するという意味だそうです。正しく聖書を理解し、そのことを人々に宣べ伝えていきたいと思います。そして、ぜひ、正しく実を結ばせていきたいと思います。もしも、「実を結ばない者」になってしまうなら、神の怒りの裁きを招いてしまう可能性がありますので、くれぐれも気をつけていきたいと思います。ぜひ、こういったポイントにおいても、目を留めていただけたらと思います。

 

本日のメッセージの内容は、以前から繰り返し語っていることですが、とても大事なことだと思いましたので、重ねてリピートさせていただきました。また、自分自身がこんな風にわずかでも人々に御言葉を伝えている立場ですので、神様はとても大切なことを語っているなぁと、改めて思いました。

 

大分以前の私は、日々、聖書は読んでいたものの、数行だけ、それも気に入ったところを選んだり、興味が持てそうなところを探して読んでいました。お祈りに関しては、お祈り会等に参加していましたので、まぁまぁ、そこそこ、教会では1,2時間祈っていました。でも、自宅で祈るという習慣はあまり、と言うか、ほとんどありませんでした。でも、ある伝道師の話を聞いて、「これではいけない!」と、思って、真面目に聖書を読み、自宅でもお祈りするようになりました。聖書の通読も心がけるようになりました。

 

ある日、教会に一人の海外の伝道師が招かれて、そこで語られていたメッセージによって心が動かされました。その伝道師は、このようなことをおっしゃっていました。「私たちの国のクリスチャンは集会が始まる前に、皆、熱心に聖書を読んだり、お祈りをしています。」と。その言葉を聞いて、とても恥ずかしくなりました。きっと、その国のクリスチャンは、普段の信仰生活でも、そういったことを取り入れているんだろうな?と、思ったからです。しかも、当時の私は、集会が始まる前に、聖書を読んだり、お祈りしていたりしたか?と、言うと、それもほとんど実践していませんでした。なので、その時を機に、悔い改めることにしました。(幸い、今通っているレムナントキリスト教会では、礼拝の前に準備祈祷の時間がありますので、必然的に礼拝の前のお祈りの習慣を身に付けることができました。)

 

それから、1,2年経ってから、エレミヤの部屋のHPに導かれました。エレミヤ牧師のメッセージを通して、御言葉を読むこと、お祈りをすることに力点を置くことが信仰生活や霊的な建て上げや働きを進めていく上での基本中の基本であることを学びました。また、弟子として歩むこと、たとえや奥義を理解することの重要性についても教えていただき、レムナントキリスト教会に行くようになって、そのことも実践するようにしました。すると・・・徐々にではありますが、教理において、ぶれがなくなりました。そのことを熱心にする前は、おかしな教理を喜んで受け入れていて、しかもそのことを時々人にも伝えていたのですが、(これは、良くないことです。今は悔い改めています。)反対に、おかしな教理や嘘や偽りを少しずつ吟味するようになりました。時には、そのことに異を唱えられるようにもなりました。

 

まだまだ、知らなかったり理解していないことは多いですが・・・これからも、このようなスタンスで歩みを続けていきたいと思います。本日も大切なことを語ってくださった神様に栄光と誉れがありますように。主に感謝して。