聖書箇所 ピリピ人への手紙3:1216

 

3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

3:15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。

3:16 それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。

 

「得るべきものを得るためにひたむきに走る」というテーマで、御言葉に沿って見ていきたいと思います。

 

本日の箇所は、以前メッセージさせていただきましたⅠコリント人への手紙924,25と若干オーバーラップしますが、大切なことを言われていますので、再度ご一緒に学びたいと思います。

 

 私の勘違いでなければですが・・・昨今クリスチャンの間で永遠の命を獲得するのは楽勝!と、そんな風潮が見受けられるのですが、いかがでしょうか?少なくとも以前の私は、多少なりともそのように思っていました。でも、聖書を読むかぎり、永遠の命を得るというのは、そんなに簡単なものではない・・・と思います。

なぜなら、今までも繰り返し申し上げていますように、「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、見いだす者はまれ」だと、イエスさまご自身がそのようにおっしゃっているからです。

そして本日の御言葉にもありますように、大伝道者のパウロですら、それを捕らえようとして追求しながらひたむきに走っていると言われているのですから、本当にそうだと思います。どうでしょうか?色々な苦難や困難の中で神さまの働きを担っているパウロがこのように言っているのですから、私たちもそれに準じて歩んでいくべきなのではないでしょうか?

 

本日の御言葉からそんなことを神さまが新約の時代を生きる私たちクリスチャンにも語っているように思います。そうなんです、パウロの言うことが正しいのです。上記御言葉が言わんとしているのは、この地上にいる間はクリスチャンであっても常に途上の身の立場であるということをわきまえて歩まなければいけないのです。そして16節に書かれていますように、神さまの言われている基準に沿って歩みをしていくことにポイントがあります。

 

 こんな例がよいかどうか分かりませんが・・・たとえばある高校生が志望の大学に入るために一生懸命受験勉強をしています。毎日深夜遅くまで、そして早朝から必死にひたすら勉強に励んでいます。ただ、いくら必死に頑張っていると言っても、この時点ではまだ受験生の立場であって大学に合格したわけではありませんよね。試験を経て合格点に達してはじめてその大学の学生にふさわしいとみなされます。また、どんなにしゃかりに頑張ったとしても合格できるように勉強しなければ不合格になってしまいます。たとえば文学部を志望しているにもかかわらず法学や経済学をがむしゃらに勉強しても合格することはできません。せっかく勉強してもすべて無駄になってしまいます。

 

クリスチャンの歩みに関しても同じようなことが言えるのではないかと思います。クリスチャンが目指しているのは「天の御国」に入ることですが、私たちも受験生と同じ立場で、生きながらえている間はそこを目指して歩んでいる立場に過ぎず、まだゲットしたわけではないということを理解しながら歩んでいかなければいけません。また、目的地に入るために、それにふさわしい歩みをしなければいけません。それこそ文学部を志望している人がひたすら文学を勉強するように、私たちも天の御国に入るための正しい知識を得て、そのことに沿ってひたすら歩んでいかなければいけません。

 

そのためにはある程度の聖書の読み込みや祈りは必須とも言えるでしょう。聖書を読むことによって神さまの言われている基準を学ぶことができます。反対に聖書を読まないなら、何を基準に歩んでいったらよいのかを見失ってしまいます。

また、なぜ祈りが必須なのかと言いますと、同章の10,11節でパウロが言われていますように、私たちは「キリストの苦しみにあずかることも知って、どうにかして死者の中かからの復活」に達しなければいけないからです。そのことばに続いて、「すでに得たのでもなく、捕らえたのでもなく、ひたすら捕らえようとしてひたむきに走っている」と言われているということから、すなわち「死者の中からの復活」ということが、天の御国に入るためのキーであるという風に理解できるのではないでしょうか?つまり日々、キリストと同じようになっていること、そのことを死ぬ時までずっと保ち続けること、それによって永遠のいのちを得られると、そのようなことを言われているのだと思います。

もちろんこのようなことは、私たちの生まれつきの性質や力では到底及ばないことではありますが、しかし、祈りによって比較的あっさりとこのことは実現していくという風に思います。私たちがそんな風になれるように、死者の中からなんとか復活できるように、イエスさまは十字架にかかって死んでくださったからです。そういった意味合いで、イエスさまの十字架の死を無駄にしてはいけないのです。そう、私たちは日々お祈りによって神さまから力をいただいて、なんとかキリストの復活に達することができるように祈り求めていきたいと思います。

もし、本当にこのことを継続していくのなら、神さまの憐れみによって実現していきます。そしてその延長線上には永遠のいのちが約束されます。ですから、すでに得たなどと決して油断せずに、パウロのように捕らえようとしてそのことを目指してひたむきに歩んでいきたいと思います。それも神さまを恐れて、かぎりなく謙遜になって、です。

反対に、もう得たから大丈夫などと言っている人は、もしかすると、いいえ、恐らく永遠の命は危ないということを肝に銘じておいたほうがよいと思います。そしてただちに方向を転換することをおすすめいたします。

 

 私自身の証ですが、セミナーやニュースレターで話したことですが、数年前に「この道しかない、この道を歩んでいきなさい」という神さまからの語りかけを夢の中で受けました。「この道」ということばは、使徒の働きの中に出てくるのですが、要は永遠の命に至る細くて狭い道のことを指します。そのような語りかけを受けたときに、本当に御国に入りたいのなら神さまが指し示す道だけを歩んでいかなければいけない、ということを御霊に感じました。

そういった意味合いでは本日の御言葉でパウロが言われていることに関しては何の矛盾もなく、すべて合点がいきます。やはり天の御国に入るというのは、そんなに甘いものではないという風に私自身も痛切に感じます。また、イザヤ書では主ご自身のことを「試みを経た石」という風に言われていますが、色々な困難や艱難は通る、が、しかし、それでも残る人が天の御国に入るということを言われているのではないかと思います。  

本日の御言葉やメッセージを通して、そうではないだろうかと益々確信を得ましたので、神さまに憐れみを求めて主の言われている道をひたすら歩み続けていきたいなぁと思います。

本日も大切なことを語ってくださった主に栄光と誉れがありますように。