聖書箇所 マタイの福音書1:23


1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)


神と共にいる」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。


冒頭のみことばは、ヨセフの婚約者マリヤが結婚前にイエスさまを妊娠したときのことについて言われています。「処女がみごもっている」と書かれているように、そもそもこの世においてこんなことは物理的にあり得ないことなのですが、しかしさすがは神さま!私たちの常識や概念を遥かに超えたわざを成してしまうんですよね~。もちろんイエスさまを受け入れていないこの世の人にとっては信じられないことではありますが、ほんのわずかでもイエスさまに心が向くときに難なくこういったことも信じられてしまう、なんていうことは、ある意味クリスチャンならではの特権とも言えますよね??ところで今回見てみたいのは、カッコの中に書かれている「神は私たちとともにおられる」ということです。


さて、この文章を読まれているあなたにひと言質問します。日々の歩みの中で、神さまが共にいてくださるなぁということを感じているでしょうか?常時、とまでは言わなくても、ふとした時に「神さまがいるなぁ」という風に思われているでしょうか?「当然だろ!俺はクリスチャンなんだから!」とか「今ひとつ実感が無い」などと、反応は様々だと思います。たしかにクリスチャンになって間もないという人は、神さまの臨在に関してあまりピンと来ないかもしれません。でも、大丈夫です。信仰の歩みを続けていくうちにだんだんと神さまがいるなぁということを徐々に体験していけると思います。特に祈りに応えていただけるようになると、神さまの栄光やみわざを目の当たりにするので実感が沸いてくると思います。なので「神さまって本当にいるの?もしかしたらいないかも知れない!」なんていう風に決して諦めないでくださいね。求めていくなら、必ず神さまの臨在に触れますので大丈夫です。


さてさて、「神は私たちとともにおられる」と書かれていますように、たしかに神さまはクリスチャンと共にいてくださいます。ただですね、すべてのクリスチャンと神さまが果たして共にいてくださるのか?はたまた常時いてくださるのか?と言うと、それはどうも違うようです。それに関してみことばを少し見てみましょう。


参照 Ⅱ歴代誌25:7

25:7 神の人が彼のもとに来て言った。「王よ。イスラエルの軍勢をあなたとともに行かせてはなりません。主は、イスラエル、すなわち、すべてのエフライム族とは、共におられないからです


この箇所を少し見てみましょう。ここで「主は、イスラエル~共におられない」とあります。ちなみに旧約の神の民は、「北のイスラエル」(新約のカトリック)と「南のユダ」(新約のプロテスタント)に分かれていました。ゆえに、「イスラエル」とは、カトリックの信者のことを言われています。失礼を承知の上で申し上げますが、ズバリ、カトリックの人たちと神さまは共におられないのです。もちろんカトリックのすべての信者の人といない、というわけではないと思いますが、聖書にこのように書かれているので概ねそんな風に理解するのが正しいのだと思います。では、なぜ、カトリックの人たちと神さまはいないのでしょうか?以前の私もそうでしたが、プロテスタントの教会や信者の方たちは、今ひとつカトリックの実情について理解されていない方が多いのでは?と思います。「何を偉そうに!」と思われるかも知れませんが、でも、一応と言ってはなんですが、ローマ・カトリック教会の問題点に関しては若干知っておいたほうが良いと思います。そうでないと、これから起きてくる教団同士の対立のこととか、艱難時代の苦難について、全く訳が分からなくなってしまうからです。


まず、カトリックの大きな問題として、「偶像崇拝」が挙げられます。聞いたところによると、カトリックが用いている聖書の十戒には「偶像崇拝」に関する聖書箇所が抜けているそうです。また、ローマ法皇は「進化論は正しい」と言っているそうです。しかも多くのカトリックの信者の方たちは、これらの教えに従っているそうです。他にも挙げ出したらキリがありません。ロザリオの祈り、マリヤ崇拝、法皇崇拝、聖人崇拝、地獄は無い、煉獄がある等々。ゆえに、「主は、イスラエル~共におられない」のことばは、正しいことがお分かりになると思います。要は、みことばを曲解して嘘、偽りを吹聴するときに、いくらクリスチャンと称していても、神さまは共にいてくださらないのです。


ちなみにⅡ歴代誌のみことばは、ユダ(プロテスタントの予表)の王アマツヤが戦いに行こうとした際に神さまの人、すなわち預言者を通して言われたことですが、神さまが共にいない人、つまり御心が無い人と戦いに行っても「勝つことができない」ということを言われているのではないでしょうか?次節にはこんな風に書かれているからです。「それでも、あなたが行くと言われるのなら、そうしなさい。雄々しく戦いなさい。神は敵の前にあなたをつまずかせられます。神には、助ける力があり、つまずかせる力もあるからです。」と。このことはつまり、御心が無い人と一緒に戦いに出ても、「神は敵の前につまずかせられます」とありますように、敵の前に立つことができないということを言われているのです。話は少し脱線しましたが、北のイスラエル、すなわちカトリックのように、クリスチャンであっても、必ずしも神さまが共にいてくださるとはかぎらない、ということをこの箇所からご理解いただけるかと思います。そしてこの箇所を通して学ぶべきことは、神さまの御心に沿わないものがあるときに、神さまが共におられないこと、戦いに勝つことができない、ということが理解できます。なので、神さまが聖絶されているものがありましたら、速やかに除外していきたいと思います。そうするなら、神さまは共にいてくださるのです。それこそマリヤ崇拝やおかしな教理を手放していくなら、神さまは共にいてくださるようになりますので、もし、何かお心あたりがありましたら、すぐさま実践していきましょう。そして神さまと共にいたいと思います。


「神さまがいない」ということに関連して、よろしければもう一箇所、見てみましょう。


参照 申命記1:42

1:42 それで主は私に言われた。「彼らに言え。『上ってはならない。戦ってはならない。わたしがあなたがたのうちにはいないからだ。あなたがたは敵に打ち負かされてはならない。』」


このことばは、旧約の神の民がまだ、北のイスラエルと南ユダに分かれる前の時、つまりひとつだった時のことです。旧約の神の民がエモリ人と戦おうとしたときに、主がモーセに言われたことばです。「わたしがあなたがたのうちにはいないからだ」と。さらに「あなたがたは敵に打ち負かされてはならない」と言われています。先ほどのⅡ歴代誌もそうでしたが、神さまが共にいないときに、敵に打ち負かされてしまう、つまり敵に勝つことができない、ということをここでも言われています。そしてなぜ、ここでも神さまは共にいなかったのでしょう?それは上記のみことばの前のほうを読むと分かるのですが、カレブとヨシュア以外の民は、神さまに従い通さなかったからです。このことから教訓を学べます。つまり、私たちが従わない、というときにも、神さまは共にいてくださらないのです。裏返すなら、従い続けていくときに、神さまは共にいてくださるのです。ここのあたりで勘違いをすることの無いように気を付けましょう。


「従わない」ことが、なぜ、神さまを怒らせたり、はたまた共におられなくなってしまうのか?と言うと、今までも何回か話したと思いますが、「従わない」ことはそのまま「偶像礼拝」の罪と見なされてしまうのです。ゆえに、もし従っていないかもしれない、なんてことに少しでもお心あたりがありましたら、決して頑なにならずにすぐに従っていきたいと思います。万一、神さまの怒りを感じていたり、共におられないのでは?なんていうことを若干でも感じるようでしたら、「従っていないことがあるのでは?」という風に考えてみるのもいいかもしれません。そして「神さま、何か従っていないことがあれば教えてください」とへりくだってお祈りしていくなら、神さまは誠実で真実なお方ですので、必ず教えてくださいます。そして速やかに悔い改めへと導いてくださいますので、もしもお心当たりがありましたら、実践してみてください。


今回は2つの箇所を通して、どのような歩みをするなら神さまが共にいてくださるのか?そうでないのか?ということについて学びをすることができたかと思います。ひとつは、神さまの忌むべきものがあるときに、共にいてくださらないということが分かりました。なので、もし、そのようなものがありましたら、直ちに捨て去っていきたいと思います。もうひとつは、従わないときに神さまは共におられないということです。仮に昨日までは従っていたけれど、次の日からは背く歩みに入ってしまったら、もう、神さまは共にいないのです。なので、要注意です。はたまた、従うことを拒否し続けていく時に、「天の御国」が危なくなる可能性があります。それこそ申命記には「ただエフネの子カレブだけがそれを見ることができる。彼が踏んだ地を、わたしは彼とその子孫に与えよう。彼は主に従い通したからだ」とあります。「彼が踏んだ地」とは、恐らく「約束の地」すなわち「天の御国」のことを言われていると思うのですが、裏返せば、従い通さない人は入れなくなる可能性があるということを言われていると思います。なのでこのことは粛々と考えていきたいと思います。そう、つまり神さまが共にいないというときに、「天の御国」が「空約束」になってしまう可能性がある、ということはよくよくとらえておきましょう。このことは裏返して言うと、もし、本当「御国」を受け継ぐつもりがあるのなら、いつも神さまと共にいることだと思います。


こんなたとえが良いかどうか分かりませんが・・・ある二人の男女が結婚を前提に交際をしています。しかしある時、女性が心変わりをして別の男性に好意を持つようになり、婚約者との関係が次第に希薄になっていったとします。交際をはじめた頃は週に一度必ず会っていたのが、二週間に一度になり、一ヶ月に一度になり、半年に一度になり、やがてほとんど会わなくなってしまったとします。はたまた、婚約者が「前のように会う回数を増やして、結婚式のこととか結婚生活のことについて話をしよう。」と言っても、女性のほうでそのことを拒否したとします。そうしたらどうなるでしょうか?いくら婚約者が女性に好意を持っていても、はたまた一緒にいたいと思っていても、相手の心が離れてしまったら、あるいは婚約者の言うことに耳を貸そうとしないなら、結婚には至らないのではないでしょうか?このようなことと比較するのは何ですが、天の父なる神さまも私たちに対して同じように対応されるのではないか?と思います。そうなんです、地上でずーっと神さまと共にいる人、神さまの言うことに従う人と、神さまは後の世を過ごしたいと思われていると思います。ですから、私たちが「天の御国」に入りたいのなら、何が何でも神さまと共にいなければいけないのです。もっと言うなら、神さまと共にいる延長線上において、「天の御国」は約束されているのでは?と思います。そしてそのためには、本日学んだポイントに留まれるように祈り求めていきたいと思います。


ちなみにイエスさまの生涯はまさに「天の父への服従」を絵に描いたような歩みでしたよね。そして聖書を読んで理解できることは、イエスさまのそばには常に天の父なる神さまが共におられました。そしてありとあらゆるサタンの戦いに勝利して、みごとに天の御国に入りました。このことからも、「天の御国に入る」=「主に従う」=「神さまが共にいる」ということがお分かりになると思います。ゆえにどこまでも、イエスさまが規範となることが理解できますよね?なので、ぜひ、神さまと共なる歩みを生涯にわたって続けていきたいと思います。そして「天の御国」を受け継いでいきたいと思います。よろしければこういうポイントについても見ておいていただけたらと思います。


前にも話したかも知れませんが、「神さまが共にいてくださるだろうか?」とか「正しく神さまの言われることに従っているだろうか?」ということを信仰の歩みにおいて常々気にかけています。クリスチャン生活において色々と大事なものはありますが、一にも二にも、神さまが喜んでくださっているか?神さまに受け入れていただける歩みをしているか?ということに目を留めています。そうしていくと不思議と、「ここを直したほうが良い」とか「ここの部分は以前よりは良くなっているけど、あともう一歩」とか、そんな風に神さまが助言をくださいます。その方法は様々で、人が語ることばであったり、目に見える状況を通してであったり、あるいは神さまからダイレクトに語りかけを受けたり、はたまた神さまからの試練(テスト)を通してだったりもします。でも、そのたびに、「神さまの言われる通りに従っていくことができますように!」と祈るようにしています。そうすると神さまがその時々にあって、必ず助けてくださいます。そんな時に、「ああ、神さまが共にいてくださるなぁ」ということを実感します。反対に背いたり、従わないときに、聖霊さま(神さま)が離れていくのを霊において感じます。もちろんこのことには全く御心が無いので、気を付けていきたいと思います。今回の箇所を通して、神さまが共にいてくださるように、そして神さまに従っていくことができるように求めていきたいと思いました。いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。