聖書箇所 マタイの福音書10:32,33

 

10:32 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

10:33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。

 

「人の前でクリスチャンであることを告白する」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

この箇所は比較的ご存知の方が多いと思います。そしてここでもとても大事なことが語られています。上記みことばはイエスさまが言われたことばです。「わたしを人の前で認める者はみな~その人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら~そんな者は知らないと言います」と。

 

さて、今の時代において、多くのクリスチャンは機会があれば人前で、「私はキリストを信じています」とか「私はクリスチャンです」という風に告白していると思います。もちろんそれは良いことですし、このように聖書で奨励されていることなので今後も行っていくことをおすすめいたします。けれども、終末、特に艱難時代において、キリストに対しての悪評が立ったときにそのことができるか?がこれから問われていくと思います。と言うのは、上記みことばは、さばきの日のことにひっかけてイエスさまが言われたことだからです。同章16節では「さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです」とあり、さらにそれ以降では議会に引き渡されるとか、兄弟は兄弟を死に渡すというようなことが書かれています。これって艱難時代のことに起きることであります。

 

そしてまた、聖書においてこれから背教が起きることが預言されています。その時に恐らくキリストへの冒涜が起こると思います。もう、すでにそういった兆候は少しずつあらわれつつあるように思います。やれ、キリストは復活していなかったとか、キリストはマグダラのマリヤと結婚して子どもまで設けていたなどというヨタ話が出回っています。そして背教が本格的に起きて艱難時代に入っていくと、このようなことは益々エスカレートしていくと思われます。しかもそのようなことがこれから教会においても受け入れられていくのでしょう。そういった状態の中であっても、「イエス・キリストをきちんと告白できますか?」ということを上記みことばは語っているのでは?と思います。もちろん艱難時代も何もない平素の状態においてもこのことは必須であります。なぜなら「人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います」とあるからです。もし、死後、イエスさまに「そんな者は知らない」と言われてしまったらどうでしょうか?御国を受け継ぐでしょうか?それとも受け継がないでしょうか?恐らく無理ではないかと思います。ちなみに「知らない」ということばに関して、別の箇所では以下のような意味合いで使われていますので、よろしければ見てみましょう。

 

参照 ルカの福音書13:2528

13:25 家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。

13:26 すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』

13:27 だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』

13:28 神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。

 

ここでも「知らない」ということばが使われています。そしてイエスさまにこのように言われた人たちに対して、「出て行きなさい」とか「外に投げ出される」ということが言われています。このことは、「神の国に~はいっているのに」ということばに対して言われていることなので、「出て行きなさい」とか「外に投げ出される」とは、要するに、天の御国に入らない、ということを言っているのです。

 

冒頭のみことばに再度戻りますが・・・もし、私たちが人の前でイエスさまを「知らない」と言った場合に、天の御国は危ない、ということは心に留めておきたいと思います。また、イエスさまを「認める」ということは、「告白する」ということにも通じます。「人の前で認める」のところはKJV訳では、“confess”ということばが使われていて、「信仰を告白する」という意味合いがあるからです。ですから、私たちがイエスさまのことを告白すること、要は自分がクリスチャンであることを人の前で告白することは、思いのほか大事だということが分かりますよね?そのことを実践するなら、のちの世においてイエスさまに認められ、クリスチャンの入るべき所、天の御国に入れるのです。そう、人の前で、そして「口」で告白することがとても大事なのです。そのことを強調しているかな?と思う箇所がありますので、よろしければ参考までに見てみましょう。

 

参照 ヨハネの福音書12:42,43

12:42 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。

12:43 彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。

 

42節に「告白はしなかった」とあります。このところはKJV訳では、“they did not confess him”とあります。ここでも先ほどの「認める」のことばと同じ単語“confess”が使われています。そしてここでは日本語でも「告白」ということばがそのまま使われています。イエスさまの時代も、指導者たち、つまり今で言う牧師や教師の立場の多くの人たちがイエス・キリストを信じたのですが、しかしパリサイ人たちをはばかって「告白」はしませんでした。その理由は「会堂」(教会)から追放されないためでした。さらにまだ理由があって、43節にありますように、神からの栄誉(KJV:賞賛)よりも、人の栄誉を愛したからでした。

 

これらのことは、イエスさまの公生涯の時に起きたことですが、また、それは新約時代の世の終わりの三年半の艱難時代の予表ではないかと思われます。それこそイエスさまの旧約時代の終わりにおいて教会も神の民も変質していて、そのため教理が曲がりに曲がっていたために、イエスさまのことをまともに告白することは大変な時だったのでしょう。しかし彼らの取った態度は残念ながら神さまの前にはNGなのです。神さまよりも人の顔色を優先して人からの賞賛を気にするあまりにイエス・キリストの信仰の告白をしないことはダメなのです。この箇所には書いてはいませんが、これは恐らくのちの世において、神さまから「知りません」と言われるパターンなのでは?と思います。

 

たしかに終末においてもキリスト教会における変質が預言されていて、ありとあらゆる教理がこれから曲げられていくような時代に入っていくのでしょうが、けれどもみことばは変わりませんので、そして聖書においてはイエス・キリストの信仰を告白すること、つまりクリスチャンであることを告白することを奨励していますので、このことを死守することができるように求めていきたいと思います。それこそ先ほどの指導者ではありませんが、人を恐れるあまりに告白せずに、はたまた「自分はキリストとは関係ありません」なんて否定してしまうときに、恐らく天の御国は危ないものとなりますので気を付けていきたいと思います。よろしければこういうポイントにおいてもご理解いただけると幸いです。

 

去年(2014年)の夏に、たしか午前の礼拝のメッセージだったと思うのですが、イエス・キリストのことを口で告白することにポイントがあります、ということを教えていただきました。ローマ人への手紙にも、「あなたの口でイエスを主と告白し」と書いてありますので、とても大事なことだと思いました。また、その時のメッセージの中で、たとえばノンクリスチャンの前で、自分がクリスチャンであることを告白することも大事ですよ、日曜日はどうしているんですか?なんて質問された時にはすかさず「教会へ行っています」という風に言いましょう、というようなことを語られていました。そしてそのメッセージを聞いたあと、改めて自問自答してみました。「自分はきちんと告白できているだろうか?そして艱難時代に入って告白ができるだろうか?」と。そして全く自信が無いなぁと思いましたので、少しずつ祈り求めていくようにしました。そうする中で、「どのレベルでの告白をするべきなのか?」という疑問が沸いてきました。極端なことを言えば、道行く人々の前で「自分はクリスチャンです!」と言うべきなのだろうか?と。

 

そうこうするうちに、あるみことばが示されました。Ⅰテモテに書かれている「私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。」のみことばです。このことばから、ヒントを得ることができました。さらにそれに関して書かれている箇所があり、そこには「そこでピラトはイエスに言った。『それでは、あなたは王なのですか。』イエスは答えられた。『わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。』」(ヨハネの福音書18:37とあります。イエスが捕らえられたときに、ピラトに「あなたは王なのですか」と質問されて、それに対して、「あなたが言うとおりです」と答えたことにポイントがあり、そのレベルの告白をするのが良いのでは?と思いました。

 

なので、エレミヤ牧師がおっしゃるように、たとえば「休みの日はどんな風に過ごしていますか?」と質問されたときには、「クリスチャンなので教会に行っています」とか、「平日はどうされているのですか?趣味とかあるんですか?」と聞かれたりしたときには、「クリスチャンなので聖書を読んだり、お祈りをしたりしています」といった感じに答えることができれば良いのでは?と思いました。もちろん場合によっては自ら告白してもいいと思いますし、そしてあらゆる機会をとらえてクリスチャンであることを告白できたらなぁと思いました。そして艱難時代に入っても、同じように告白をしていければ・・・と願っています。

 

今回の箇所を通して、のちの世において「知らない」とイエスさまに言われてしまうことのないように、これからもこのことを求めていきたいと思います。いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。