聖書箇所 マタイの福音書14:7

 

14:7 それで、彼は、その娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をした。

 

「『誓い』に気を付ける」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

「彼」とは、ヘロデ王のことです。「娘」とは、妻ヘロデヤの娘のことで、この時、ちょうどヘロデの誕生祝いがあり、彼女(ヘロデヤの娘)は皆の前で踊りを踊ってヘロデをよろこばせました。その流れの中で、上記のことばをヘロデ王は、彼女に言ったのでした。

 

さて、ヘロデが言ったことばは、一見何の問題もなさそうに思えます。この世においても「誓う」ということは珍しいことでもなんでもないですよね?そうそう、子どもの頃、時々「指きりげんまん、嘘ついたら~」なんて言って、お互いに何か約束を交わした、なんていう人もいらっしゃるのでは?と思います。言うなれば、「誓い」ですよね?他にも、たとえば体育祭の時、競技を行う前に代表の人が出てきて、「宣誓!わたしたち選手一同は、スポーツマンシップにのっとり~」なんていう風に「誓い」をすると思います。たしかにこれらも「誓い」であります。しかし、聖書においてはどうも「誓い」のことが、そう、誓うか?誓わないか?が、のちの世の行き先を決めてしまう可能性があることを言われていますので・・・もっと言うなら、永遠の命を得るかどうかにかかわってくるようです。

 

ちなみにヘロデはこんな風に誓ったために、バプテスマのヨハネを死に至らせてしまいました。バプテスマのヨハネは正しく歩んでいるクリスチャンの型です。しかし誓いによって、殺すことになってしまったのです。それによって、ヘロデ王は恐らく天の御国に入れなかったと思われるのです。ですので、「誓い」ということばから、そのことに関する注意点について、今回見ていきたいと思います。

 

「誓う」ということに関連して、ひとつみことばを見てみましょう。

 

参照 ヤコブの手紙5:12

私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい。」を「はい。」、「いいえ。」を「いいえ。」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。

 

ヤコブがここで、「誓わないようにしなさい」と言っています。そして、「それは、あなたがたが、さばきに会わないためです」とありますように、誓うことによって、どうやら「さばき」を招いてしまうことが理解できます。また、「誓ってはならない」とか、「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい」ということについてイエスさまも言われていますので、よろしければその箇所も見てみましょう。

 

参照 マタイの福音書5:3437

5:34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。

5:35 地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。

5:36 あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。

5:37 だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。

 

34節で、「決して誓ってはいけません」とありますように、「誓い」はご法度だ、ということが分かります。そんな風に聞くと、「ええっ、それじゃあ、友だちとお茶を飲む約束もしたらダメなの?」と思われるでしょう。それは大丈夫です。この箇所では特にそういうことを言っているわけではありませんので・・・それではいったい何に対して誓ってはならないのか?それを考えてみたいと思います。そのヒントがヤコブ&マタイの両者共に書かれている、「天」とか「地」ということばにあります。

 

レムナントキリスト教会の礼拝メッセージとかでも語られていますように、「天」とか「地」は「教会」を指すたとえです。また、そのことばに関連して、「この天地は滅び去ります(KJV:すたれる、終わる)。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイの福音書24:35ということが言われています。このことばはどういうことなのか?と言うと、「天地」、すなわち教会はすたれますよ~、しかし神のことばは決して終わることがありませんよ~、ということなのです。もっとわかりやすく言うなら、教会は神のことばを曲げていくので、教会らしからぬものに変質していきますよ、しかし神のことば、つまり聖書のことばには何ら変わりはありませんよ~、ということです。

 

そしてそのことは、終末に起きてくると思われます。なぜかと言うと、「この天地は滅びます~」との主のことばは、終末の事柄に関連して語られたことだからです。終末は、あらゆる教理がおかしくなっていく、ということを言われているのです。一例を挙げるなら、進化論は正しいとか、キリストは復活していなかったとか、クリスチャンは艱難の前に携挙される、というものです。そして残念ながら、そのようなことを語る教会は、いずれすたれてしまう、というのがこの箇所で言われていることなのです。そう、つまり教会でおかしな教理が語られていて、しかしそれに同調してしまうときに、また、それらに異を唱えないというときに、あわや教会に対して「誓い」を立ててしまう可能性があるのです。

 

そして、もし、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とした態度を取らない場合に・・・たとえば誰かから、「クリスチャンは艱難の前に携挙されるんだよね?牧師が言っていたんだから間違いはないよね?君はどう思う?」なんて質問されたとします。その時に正しい教えを知っていながらも、「うーん。ぼくはどっちとも言えないと思う。」なんていう風に答えるのはNGであります。「それは違うと思うよ。聖書には、かつてもなく、今後も無いようなひどい苦難の時が来るとか、全世界に来ようとしている試練の時、という風にクリスチャンは艱難を通ることが書かれているから、その教えは間違いだと思うけど。だからぼくは、艱難前携挙説は違うと思うから、その時のために備えをしているんだ。君もそうしたほうがいいよ」と言うのが正しいのです。ひとつは間違えた教えに関して、同調したり、受け入れたりしないことです。もうひとつは、そのことに関して異を唱えていくことです。場合によってはみことばに基づいて指摘していくことが大事なのです。そうしていくときに、神さまの前に「よし!」とされるのではないかと思います。

 

また、おかしな教理はいったいどのようにして蔓延していくのか?と言うと、反キリストが立つことによって、教会に入ってきます。その一例として、アメリカでは「同性愛」を合法化したそうですが・・・そのために「同性愛」を受け入れない人々は「非合法」と言われ、つまり法律に背いているという理由で逮捕されたり、投獄されたりと、大変な目に会っているそうです。

 

しかし残念なことに、多くのキリスト教会では「同性愛」を受け入れる方向へと進んでいるそうです。けれども、もしそのようなことに同調し、あるいは異を唱えないというときに、神さまの前には、天地、つまり教会に誓いを立てている、という風に見なされてしまう可能性があるのです。

 

ゆえに、イエスさまが終末のことを語られたときに、「『荒らす憎むべき者』が聖なる所に建つのを見たならば、そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません」と言われたのです。『荒らす憎むべき者』とは、「反キリスト」のことです。「反キリスト」は、もちろん一個人のことも言われていると思いますが、おかしな教理や霊を蔓延させる働き人のことをも言われていると思います。それこそ、Ⅰヨハネの手紙に、「今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。」とありますように、終末にはひとりではなく、多くの反キリストが現われる、ということが理解できます。

 

そして「反キリスト」はどこに現われるのか?と言うと、「聖なる所」すなわち「教会」に現われるのです。教会に現われて何をするのか?と言うと、おかしな教えを語り、正しい教えを覆すのです。つまり、聖書のことばに反するメッセージを教会で語るのです。その時にどうするのか?ということについても言われています。「山」「屋上」に逃げるのです。これらもたとえで言われていて、「山」とか「屋上」は「地下教会」を指すたとえです。

 

ちなみに「地下教会」は、政府公認の公の教会ではありません。政府公認の教会では、これから反キリスト的なメッセージが語られていくようになるので、もしそうなった場合には「そこから出て、自分たちで地下教会(仮庵の祭り)を行いなさい!」ということを語っているのです。政府公認の教会では、政府が認めるメッセージ(たとえば、先ほどの同性愛を容認するもの)しか語られなくなっていくことを想定して、このようなことをイエスさまは前もって語られたのでしょう。反キリストが立つのを目の当たりにしながらも、しかしそこにずっと留まり続けていくときに・・・絶対にそうだ!とは言えませんが、恐らく「誓い」をせざるを得ない状況になっていくのではないか?と思います。ゆえに主が前もって言われたように、反キリスト的なメッセージが語られている!なんてお気付きになりましたら、そこから出て地下教会の歩みに入っていくことをおすすめいたします。

 

今回のポイントをまとめます。「誓い」ということばは、特に世の終わりにおいて大いに関係していくと思われます。また、このことばは、「天地」すなわち「教会」に関連している事柄だ、という点はよくよくとらえておきたいと思います。正しいことを知っていながらも、いくら教会とはいえ、はたまた牧師やメッセンジャーが語っているとはいえ、しかしおかしな教えに同調したり、異を唱えたりしない、という場合に、教会に「誓い」を立てている、と神さまの前に見なされてしまったり、そのことが有効になってしまう可能性がありますので、気を付けていきたいと思います。

 

特に艱難時代(艱難時代の期間に関して、ダニエル書では、『彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び』とありますので、3年半ではなく、7年間)においては、反キリストに着くのか?みことばなるキリストに着くのか?と問いかけがゆるされていくと思いますので、そのあたりに関してはどうするのか?をしっかりと決めておきたいと思います。何が何でも「永遠の命」を得たい!と思われているのでしたら、このことをまじめに考えていきましょう。

 

一方、どっちつかずとか、あるいは反キリストに同調するという場合に、永遠の命は保障されない可能性があります。黙示録には、獣の刻印を受けた人々は、「硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた」と書かれていますので、正しく選択をしていきたいと思います。

 

今回は、誓ってはいけません、という点から話をさせていただきました。よろしければご理解くださると幸いです。

 

コメント

「誓い」に関する事柄は、今回がはじめてではなく、機会があるごとに語らせていただいておりますが、終末に永遠の命を得る大事なポイントなのでは?と私個人はそのように理解しています。

 

かつては「誓い」について書かれている箇所を目にしても、何を言っているのかサッパリ分かりませんでしたが、礼拝のメッセージや土曜日の学びを通して少しずつ理解できるようになりました。もちろん完璧ではありませんが、おおむねこういうことを言っているのでは?と思いましたので、わかっている範囲でおよばずながら話をさせていただきました。また、自分自身も誓うことのないように、気を付けていこうと思っています。

 

いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。