聖書箇所 マタイの福音書15:6

 

15:6 その物をもって父や母を尊んではならない。』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。

 

「神のことばを守る」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

このことばは、イエスさまがパリサイ人や律法学者に対して言われたことばです。そしてイエスさまはいきなりこのようなことを発したのではなく、一連の流れの中で言われました。その前に、パリサイ人や律法学者が言った「あなたの弟子たちは、なぜ昔の先祖たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」のことばに対して、このように言われたのです。

 

まず、彼ら、パリサイ人や律法学者が言われた、「父や母を尊んではならない」ということですが・・・このことばは、その前の節でイエスさまが言われた「神は『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言われたのです」のことばの通り、みことばに反するものであります。

 

さて、ここで理解できることがあります。ひとつは、クリスチャンの歩みの中で、律法学者やパリサイ人のように、「あなたの弟子たちは~パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか」と、聖書のみことばよりも、昔からの言い伝えとか慣例を重んじる、というものです。一方、イエスさまの弟子たちのように、言い伝えや慣例に関しては今ひとつ疎かったり、守らなかったりしても、しかし聖書のみことばをしっかりと守る、というものです。そして、この箇所を読むかぎり、人の言い伝えとか慣例と、神のことばは、どうも両立しない、というのがここでの結論のようであります。と、言うのは、「こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。」とイエスさまがハッキリとこのように言われているからです。

 

たしかに食事をする前に、手を洗ったほうが良いのか?そうではないのか?と聞かれれば、誰もが「洗ったほうが良い!」と答えるでしょうし、そうしたほうが望ましいとは思います。ただ、それはそうとして、昔からの言い伝えとか慣例と、神のことばのどちらが大事なのか?ということにおいては、まじめに考える必要がある、ということを言われているのでは?と思います。

 

ちなみに、「なぜ昔の先祖たちの言い伝えを犯すのですか。」「犯す」の部分は、KJV訳では、「法を犯す」というニュアンスがあるようです。「法を犯す」ということばで、何を思い浮かべますか?私もそうですが、多くの人は、窃盗とか殺人とか、また、そこまで大きなことではなくても、税金を滞納するとか、そういうことをイメージすると思います。もちろん、それらのことは義務として守るべきであります。そしてイエスさまの弟子たちも、こういったことはきちんと守っていたと思います。

 

けれども、「法を犯す」ということに関して、このようなことも言えるのでは?と思います。今話しましたように、私たちは国で制定された法律を基本的には守るべきではあります。が、しかし、その法律が万が一にも、聖書のことばに反する、という場合は、別であります。何を申し上げたいのか?と言うと、そのようなケースにおいては、守ってはいけないのです。ひとつ例を挙げたいと思います。

 

今までも何度か語ってきたと思いますが、アメリカでは、「同性愛」が合法化したそうです。そうしたところ、クリスチャンが経営するケーキ屋さんに、同性愛者のカップルが来て、「ぼくたちの結婚式のために、ケーキを焼いてくれないかな?」とお願いしたそうです。けれども、ケーキ屋さんは、「申し訳ありません。聖書で同性愛は禁じておりますので、同性愛者の結婚式のためにケーキを焼くことはできません」とお断りしたところ、そのケーキ屋さんは法律を下に訴えられ、罰金まで課せられたそうです。

 

たしかに法律では「同性愛」が合法化され、反対にそれに異を唱える者は「法律を犯す者」として扱われ、逮捕されたり、投獄されたり、あわや罰金まで課せられる、なんていう風に罰則されてしまうのですが・・・だからと言って、それに同調して良いのか?と言うと、そうではありません。いくら「法律」を守ることが良い!と言っても、しかしその法律が聖書のことばに反する、という場合、従うことに御心は無いのです。従ってしまうときに、それこそ、「こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。」という風に、イエスさまから見なされてしまう可能性が十分あり得るのです。

 

ですから、すべてがすべてではないにしろ、しかし「言い伝え」とか「慣例」においては、よくよく注意をしなければいけません。そして「言い伝え」とか「慣例」とは、私の捉え違いや勘違いでなければ、今で言う、「法律」のことを言われているのでは?と思います。法律に関して・・・先ほども話しましたように、基本的には守るべきではあるのですが、だからと言って、すべてのものを守るべきか?と言うと、そうではない場合もある、ということは覚えておきたいと思います。特に、みことばを無にするもの、すなわちみことばに反するものに関しては、逆に守ってはいけないのです。

 

また、この世の中の法律もそうですが・・・しかしキリスト教会におけるトレンドとか教理とかに関しても、同じことが言えると思います。たとえば、キリストはじつは復活していなかったとか、イエス・キリストの名で祈ってはいけない、なんていうメッセージが語られていたり、キリストの名で祈らないなら税金が免除されるので、教会はそのことを取り入れることにしました、なんていうことをいくら牧師が語っていたとしても、そういったものを受け入れたり、賛同すべきではありません。しかしそういう態度を示していくときに、「この教えに反対する人は、もう教会に来ないように!でも、この教えをきちんと守るなら、集会に参加してもいいですよ。」なんて言われる可能性もあると思います。そのときに、いくら権威に従うべき・・・と言っても、しかしそこは出て、地下教会に入って集会を行っていくことをおすすめいたします。

 

そして世の終わりは・・・こんな風に、みことばに反しても法律に従うのか?あるいは神のことばに従うのか?の二者択一の選択が、個々のクリスチャンに問われるような時代に入っていくと思われます。究極の選択は、反キリストを拝むのか?それともキリストに着くのか?ということだと思います。それが顕著になるのが、三年半の「艱難時代」だと思います。ゆえに、私たちはその日のために、今から備えをしていかなければいけません。ひとつひとつの決断が、ひょっとすると永遠の命を左右する可能性もあるからです。それこそ、当時のパリサイ人や律法学者はみことばよりも、自分たちの言い伝えや慣習を優先したために、入るべき天の御国に入れませんでした。しかし、イエスさまの弟子たちをはじめ、みことばをさいごまで堅く守った人々は、永遠の命を得ることに成功しました。

 

たしかにイエスさまに着いて行った人たちは、あらゆる危険にも遭遇したでしょうし、人間的には不利になる、ということも大いに許されたとは思いますが、けれども主の守りの中でみごとに天の御国に入ったパターンですので、私たちもぜひ、このことに倣っていきたいと思います。もしかすると、私たちも主に従ったゆえに・・・そしてみことばに反するおかしな法律に従わなかったために、法を犯す者として、訴えられたり、逮捕されたり、投獄されたり、はたまた殉教する、なんていう可能性もあるかもしれませんが、永遠の命を得るのと、この世での一時的な苦難を天秤にかけた場合に、どちらがお徳か?ということにおいて賢く選択できるように、祈り求めていきたいと思います。よろしければ、こういうこともご理解いただけると幸いです。

 

法律を守る、なんていうことは、人としてごく当たり前のことだと思っていました。でも、聖書を読み、学びをしていく中で、時には、そして場合によっては、法律を破らなければいけない・・・ということを理解しました。今は、まだ具体的な事柄は日本には来ていないと思うのですが、しかしメッセージの中でも話しましたように、艱難時代には、おかしな法律を下に訴えられり、牢に入れられたりすることも、ある程度は覚悟しておかなければいけないのでは?なんていう風に少しずつ思うになりました。もちろんそんなことは全く望んではおりませんが、けれども、法律を取るのか?みことばを取るのか?という場合には、ぜひ、みことばを優先していきたい、と思っています。今はそのような日が訪れるなんてことは想像できませんが、一応、その日を想定して、歩みや働きをさせていただきたいと思います。今回も大事なポイントについて語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。