聖書箇所 マタイの福音書20:2934

 

20:29 彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。

20:30 すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」

20:31 そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。

20:32 すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」

20:33 彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」

20:34 イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。

 

「霊的に盲目だと自覚するなら」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいとおもいます。

 

メッセージの前に・・・ひとつ質問してもよろしいでしょうか?この文章を読まれているのは、恐らくクリスチャンの方だと思いますが・・・あなたさまは、ご自分が霊的によく見えている、ほとんど完璧だと思われていますか?それとも、あまり、というか、ほとんど見えていないなぁと、思われていますか?

 

今回の箇所は、「盲人」のことを扱った記事です。一般的に、盲人の方は、見ることができませんが、しかし、聖書で言う「盲人」とは、霊的に見えない人のことをも言われています。

 

30節にありますように、ここにはふたりの盲人がいました。しかしその時に、イエスさまが通ることを聞いたので、彼らは、「主よ。私たちをあわれんでください」と叫んで言いました。少しふしぎに思いませんが?ふつう、目が見えないのなら、まずは、「目を開けてください」とお願いしませんでしょうか?しかし、彼らは、まず、「あわれんでください」と言ったのです。そこでイエスさまについていた群衆は、彼らをたしなめたのですが、しかし、彼らはますます「あわれんでください」と叫び立てました。そうしたところ、イエスさまは立ち止まって、「わたしに何をしてほしいのか」と彼らにたずねました。そして、「この目をあけていただきたいのです」と、彼らは言ったのでした。その後、すぐに目をあけてもらえたわけですが、この一連のことを通して、神さまからの語りかけを受けたように思いましたので、お話したいと思います。

 

もう一度、言います。ふたりの盲人は、目をあけてもらうことをお願いする前に、まず、「私たちをあわれんでください」と言いました。イエスさまに、「わたしに何をしてほしいのか」とたずねられるまで、目をあけて欲しい、ということを言いませんでした。これを読んでどう思われますか?「目をあけて欲しい」と、結論をさっさと言えばいいのにねぇ、なんて思いますか?でも、ふたりの盲人は、あえて、「あわれんでください」ということばを言いました。

 

私の想像なので、絶対にそうだ・・・とは言えませんが、彼らはまず、自分たちが盲人である、ということをイエスさまに憐れんで欲しい、と思われたのではないでしょうか?盲人、つまり、霊的に見えない者である、ということを自ら認め、また、それは自分ではどうにもこうにも解決できないことである、そのことを自覚するがゆえに、恐らく、このような行動に出たのだと思います。その結果、34節に書かれている通りでありまして・・・彼らはイエスさまから憐れみを受けることができました。「かわいそうに思って」のところは、KJV訳では、「憐れみ」とか「同情」とあります。イエスさまは、ふたりの目をあける前に、まずは彼らを憐れんでくださいました。なぜ、そうそれたのか?と言うと、「主よ。この目をあけていただきたいのです。」と彼らが言ったからではないかと思います。そうなんです。先ほども話しましたが、彼らは自分たちが見えない者である、ということを告白したので・・・もっと言えば、自分たちは霊的に見えていない者なので、見えるようにしていただきたいと、へりくだった姿を良しとして、憐れんでくださって、目をあけてくださったのではないかと思います。つまり、霊的に見えていない者である、という姿勢をイエスさまは喜ばれたわけなのです。

 

そう、彼ら、盲人は、ある種のクリスチャンをあらわす型として書かれているように思います。最初の質問に関係するのですが・・・クリスチャンの中で、「自分は霊的に良く見えている。何でも分かっている」というタイプと、一方、「自分はほとんど何も分かっていない。見えていない。だからイエスさまに見せていただかないと信仰の歩みが成り立たない」と自覚するタイプとに分かれるのです。

 

結論を言ってしまうと、前者、「良く見えている」と自認するクリスチャンには、御心はありません。後者、つまり、ふたりの盲人のようなクリスチャンに御心があります。以下、自分のことを盲人とは思っていないクリスチャンに対しての警告について述べられている箇所がありますので、よろしければ見てみましょう。

 

参照 ヨハネの福音書9:3941

9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」

9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」

9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

 

この章をはじめから読むと分かるのですが、ここでもイエスさまは、盲人を癒し、見えるようにしました。以下の通りです。

 

参照 ヨハネの福音書9:17

9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。

9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。

9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。

9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」

9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。

9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

 

これらの一連の流れの中で39節以降のことがあったわけなのですが・・・この時、イエスさまは、「目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるため」と言いました。「目の見えない者」とは、まさに先ほどの、「盲人」のことです。また、1節に、「生まれつきの盲人」とありますが、私たちは、たとえクリスチャンであっても、また、肉体の目は見えていたとしても、けれども、じつは、元々、霊的には「盲人」だということを言われているのです。ですから、この節で言わんとしていることは、自分を盲人だと自覚しているなら見えるようになる、けれども、自分は盲人ではない、なんでも見えている、分かっている、という人は、自分が盲人であることすら分かっていないのだから、ゆえに、霊的に盲目になる、ということであります。40節のパリサイ人がイエスさまにした質問がそのことを語っています。「私たちも盲目なのですか。」と。要は、何でも分かっている、自分たちが盲目であるわけがない、と思うから、こういう質問をしたのだと思います。それに対してイエスさまは、「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」と言いました。

 

「もしあなたがたが盲目であったなら」とは、このことばはつまり、「自分は霊的に盲目だと自覚しているなら」ということを言われていると思います。そのあとで、もし、そうであれば、「罪」はなかった、と言っております。裏返していえば、もし、私たちが盲目だと自覚していないのなら、それだけで、イエスさまの前には、「罪」がある、という風に見なされてしまうのでしょう。それこそ、「しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」とのことばが、そういったことを言っていると思います。

 

今回のポイントをまとめます。私たちはたとえ肉体の目が見えていたとしても、また、クリスチャンとして歩んであらゆることを学んでいたとしても、しかし、イエスさまの前には、「霊的な盲人」である、ということを自覚することは、非常に大事なことであります。他の箇所には、「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」とも言われているとおりでありまして、どんなに聖書の知識が増えようとも、信仰が増し加わろうとも、しかし、「まだ、知らなければならないほどのことも~」という姿勢で常にいることが、イエスさまの前には正しいのであります。

 

それに関して、ある牧師さんがこのようなメッセージをしていました。「色々と学んで知識を増すことは大事ですが、けれども、『知っている、知っている』とか、『すでに知っているよ~』なんてことを言わないようにしてくださいね。もし、どうしても何か言わなければいけない場合はせめて、『さらに新しい知識が増えて感謝です』くらいのことにとどめておいてくださいね。もし、『分かっているよ』なんていうことだと、霊的にそれ以上、成長することはありませんので、気を付けてくださいね。」ということをおっしゃっていましたが、もしかすると、それは一理あるかもなぁ、と思いました。

 

そんな風に人前も大事かもしれませんが、しかし、イエスさまの前に、いつも「盲人」である態度を示していきたいと思います。「盲人」と自覚して、憐れみを求めていく人には、憐れんでくださって見えるようにしてくださいますが、しかし一方、「なんでも知っているよ」なんていう感じに、盲人であることを認めない人には、どうも霊的に見せていただけないようです。私たちの霊の目を唯一あけてくださるのはイエスさまだけなのですが、もし、イエスさまにあけてもらえないなら、何も見えなくて大変ですよね?そしてまた、「罪が残る」とも言われていますように、イエスさまの前に、そのことが「罪」としてカンウトされてしまい、はたまた、ずっと残ったままですと、天の御国に入れなくなってしまう可能性もありますので、気を付けていきたいと思います。

 

「盲人」であることを自覚する、なんてことは、今ひとつピンと来ないかもしれませんが、しかし、私たちは、「生まれつきの盲人」ということが、聖書に書かれていますので、よろしければ、イエスさまの前に、いつもそのような態度でいたいと思います。そうしていくときに、ふたりの盲人にしてくださったように、イエスさまは憐れんでくださり、霊的に見せてくださいますので・・・そして、「永遠の命」とは、恐らく、霊的に正しく見ていく延長線上において、約束されるのでしょう。ですから、「見えているよ。分かっているよ」ではなく、「生まれつきの盲人ですが、憐れんでください。見せてください」という歩みを生涯にわたって続けていきたいと思います。よろしければ、このようなこともご理解いただけると、幸いです。