聖書箇所 マタイの福音書22:14

 

22:14 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。

 

「選ばれる者になる」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

この章のはじめのほうには、結婚の披露宴のたとえ話について書かれています。その流れの中で、また、さいごの結論として言われているのが、冒頭のことばであります。そして、このことばは、イエスさまがおっしゃったことです。「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない」と。これって、何を言われているかお分かりになりますか?前のほうの節では「披露宴」ということばに関連して、「宴会」ということばが使われています。つまり、「招待」とは、宴会への招待について言われているのです。「宴会」なんていう風に聞くと、一瞬、忘年会とか新年会とか、送別会とか、そういうイメージを浮かべるかもしれませんが・・・しかし、ここで言う、「宴会」とは、「礼拝」とか「集会」のことを言われています。そう、神さまはクリスチャンを礼拝や集会に招待してくださいます。その中で、多くのクリスチャンはメッセージを聞き、教えを受けます。ではあっても、選ばれる人、すなわち天の御国に入れる人は、少ない、ということを言われているのです。

 

昨今、どうでしょうか?クリスチャンになったら、ほぼ間違いなく天国に入れる、という風に語っている教会やクリスチャンは案外多いのでは?と思いますがいかがでしょうか?もし、万一、違っていましたら、申し訳なく思います。その際は、お許しくださると幸いです。ただ、少なくとも、かつての自分はそのように思っていました。洗礼を受けて、クリスチャン生活を送ってさえすれば、おおむね大丈夫だろうと・・・でも、聖書を学んでいくうちに、また、今回のみことばを通しても、じつはそうではないのでは?と思うようになりました。「選ばれる者は少ない」とハッキリ書いてあるからです。そうなんです。選ばれる、つまりノンクリスチャンの歩みに終止符を打って、クリスチャンとして新生することは非常に尊いことではあるのですが・・・しかしだからと言って、すべてのクリスチャンが天の御国を受け継ぐのか?と言うと、そうではなく・・・反対に、「少ない」と言われております。英語では、“few”という単語が使われています。皆さまもご存知のように、「少ない」とか「ほとんどない」とか、そういう意味合いです。

 

また、「少ない」とか「ほとんどない」のことばになぞらえて、言われているみことばがあります。同じマタイの福音書には、「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」とあります。下線を引かせていただきましたが、「まれ」ということばですが、こちらもやはり、英語では、“few”という単語が使われています。「いのち」とは、まさしく、「永遠の命」のことです。それに関して、見出す者は、「まれ」だということを言われているのです。ですからこのことばからも、選ばれて永遠の命を得て天の御国に入るのは少ない、という風に理解できるのでは?と思います。ではありましても・・・しかし、何とか選ばれる者になりたいですよね?それではどうしたら選ばれるのか?ということについて、そのヒントとなることが書かれていますので、よろしければ見てみたいと思います。

 

参照 マタイの福音書22:1113

22:11 ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。

22:12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。

22:13 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。

 

ここでは、王の披露宴に招かれたひとりの人のことについて書かれています。ちなみに「王」とは、天の父なる神さまのことです。その人は、王が開催した披露宴にたしかに招かれました。今で言えば、礼拝とか集会に参加されたことを言われているのでしょう。しかし、ひとつ問題がありました。招待されたのは良かったのですが、しかしこの人は、「礼服」を着用していませんでした。そのために、13節で言われていますように、「暗やみ」に放り出されてしまいました。「暗やみ」と聞いて、ブラックホールを思い浮かべる方はあまりおられないと思いますが、「暗やみ」とは、死後の「永遠の忌み」とか、泣いたり歯ぎしりしたりする場所です。少なくとも天の御国ではないことはたしかです。このことからご理解いただけるかと思いますが、もし私たちが、本当に天の御国に入りたいのなら、「礼服」を着なければいけないのです。残念ながら、「クリスチャン」と名前が付いているだけでは天国に入るのは難しい、ということが分かりますよね?天の御国に入る=礼服の着用、ということがお分かりになりますよね?

 

では、いったい、「礼服」とは、何を言われているのか?と言うと、ズバリ、「義の衣」のことであります。黙示録に、そのことが書かれています。

 

参照 ヨハネの黙示録3:4,5

3:4 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。

 

「礼服」とは、別の言い方をするなら、「衣装」つまり「衣」とも言えますよね?そして上記聖句において、「衣」ということばが出てきます。さらにここでは、「白い衣」ということばが使われています。ちなみに、「白」は、「義」を指します。ですので、礼服=義の衣、ということになります。そして、「白い衣を~彼らはそれにふさわしい者」とか「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる」と書かれていますように、「白い衣」を着ている人が、天の御国を受け継ぐことができるのがお分かりになると思います。ですから、「礼服を着ていない」とは、「白い衣」つまり、「義の衣」を着用していない、だから天の御国に入れない、ということを言われているのではないかと思います。ですから天の御国に入るためには「礼服」、すなわち「義の衣」を着用しなければならないことが分かります。そうするなら、「入れますよ!」と言われているのです。

 

今回のポイントをまとめます。

 

何らかのきっかけで、多くの人はキリストの贖いによって救われてクリスチャンになります。このことは非常に尊いことであります。しかしだからと言って、また、毎週ごとに礼拝に参加しているからと言って、皆が皆そのままエスカレーター式に天の御国に入れるのか?永遠の命が約束されるのか?と言うと・・・「選ばれる者は少ない」と言われていますように、それは別である、ということを今回の箇所において語られているように思います。しかしだからと言って、全くチャンスが無いのか?と言うと、そうではなく・・・「礼服」、すなわち「義の衣」を着用しているなら入れるのです。

 

また、今回のメッセージは、クリスチャンの希望や思いや概念を崩してしまうようなものかもしれませんが、しかし聖書のことばがそのように書かれていますので、そのまま理解していきたいと思います。そして、もし本当に御国に入りたい!永遠の命を得たい!と思われているのでしたら、ぜひこのポイントに目を留めていきたいと思います。すなわち、「礼服」(義の衣)を着用して、神さまから選ばれる者になっていきたいと思います。そうでないときに、天の御国は保障されない可能性がありますので・・・よろしければ、このようなこともご理解いただけると幸いです。