聖書箇所 マタイの福音書23:9

 

23:9 あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。

 

「天の父を父とする」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

かつてこのことばを読んだ時に、一体何のことを言っているんだろう?と、不思議に思いました。特に、「地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません」という意味が全く分かりませんでした。私もそうですが、大半の人は、肉親の父のことを「お父さん」とか「パパ」とか、そんな風に呼びますよね?けれども、「あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。」ということを聖書において言われていますので、親に対して、他にどんな呼び方をすればいいの?と。なので、何が悪いのか、サッパリ分かりませんでした。なぜ、イエスさまはこのようなことを言われたのだろうか?と。でも、最近になって、もしかするとこんなことを語っているのでは?と私なりに少し理解させていただいたことがありますので、お話したいと思います。

 

今しがた話をしましたように、私たちにはそれぞれ、血のつながった父親が存在します。しかし、キリスト教の世界においては、「あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。」とありますように、私たちクリスチャンとって、本当の意味での父というのは、つまり霊的な父というのは、「天の父」だけなのです。ヘッ、何それ?と思われるかもしれません。では、参考までに、肉親の父と霊の父とについて書かれている箇所がありますので、見てみたいと思います。

 

参照 へブル人への手紙12:9,10

12:9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

 

ここに、「肉の父」「霊の父」ということばが使われています。そして、「肉の父」も私たちを懲らしめるということが言われていますが、しかし、10節にありますように、「霊の父」も、私たちのことを懲らしめる、とあります。両者共に「父」に変わりはないのですが、しかし、肉の父は、「短い期間」とありますように、ずっとではないですよね?ご家庭にもよりますが、ある世帯では20歳になるまでとか社会人になるまでとか、あるいは結婚とかで自立するまでとか、そんな風に期間が限定されるケースが多いと思います。しかも、「自分が良いと思うままに」とありますように、学業のこととか、あるいはしつけとかマナーとか、そういったことが主体なのでは?と思います。それも大事なことで良いことかもしれませんが、しかし、「肉」というのは、どこまでも人間的な事柄ですので、それ以上先に進むことができません。けれども、「霊の父」は違います。「霊の父」は、私たちの霊的な事柄に大いに介入なさいます。なぜ、そうなのか?と言うと、私たちクリスチャンが肉的なもの、つまり人間的なもの、もっと言うなら、生まれつきのもので生涯を終えることを天の父は望んではおりません。そういったことで生涯を終えてしまうときに、天の御国は非常に危ないものとなってしまうからです。そのために、「霊の父」は、お一人一人のさいごのさいごまで、霊的な事柄に介入し、そして懲らしめられるのです。「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」とある通りです。そしてそのことをされるのは、たった一人、「天の父」がまさしくそうなのです。ですから、「天にいます父だけ」とは、「霊の父」のことを言われているのです。このことは、つまり、「天の父」以外に、私たちの霊的な部分において、成長させることのできる存在は他にはいない、ということをも言われているのでは?と思います。ゆえに、霊的な父は、「ただひとり」だと、言っているのであります。このように考えていくなら、「あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。」という意味合いが、何となく分かりますよね?そしてこれはまた、非常に大事なことだと思われます。

 

具体的なことを言うと・・・こういうことでは?と思います。たとえば教会の神父や牧師や指導者の人たちが、「地獄はありません」とか「同性愛は受け入れるべきです」とか「進化論は正しい」とか、そういう教えを語ったとします。しかしこのようなことは、いずれも聖書には書かれていない教えです。けれども聖書のことばよりも、器の言うことを優先したり、受け入れたりしていくときに、「地上のだれかを、われらの父」と呼んでしまうのではないかと思われるのです。牧師や神父や指導者の人たちのことを、たとえ声やことばに出して「お父さん」とか「パパ」とか「父」とかと呼ばなくても、です。つまり聖書に書かれていないようなことを受け入れてしまうときに、たとえクリスチャンであっても、天の父を父とするクリスチャンではなくなってしまう、そのようなことを言われていると思います。ですから、もし器が言うことと、聖書のことばが異なる場合には、よくよく気を付けなければいけません。耳にしたり、目にしたりするメッセージが聖書のことばと相違がなければ何ら問題は無いのですが、そうでない場合で、しかも受け入れてしまうときに、天の父ではなく、器を父としてしまい、はたまた神さまから怒りを招いてしまう可能性がありますので、気を付けていきたいと思います。

 

今回の要点をまとめます。

 

私たちクリスチャンには、肉親の父(肉の父)と霊の父(天の父)がいます。もちろん、肉親の父もすばらしいのですが、しかし残念ながら、私たちの霊的な事柄にまでは行き届きません。しかし霊の父がおられ、このお方が私たちの霊的な部分を訓練したり、懲らしめたり、時として叱責をしたり、必要に応じてむちを加えられたりします。そう、そしてこのようなことをしてくださるのは唯一の父である、「天の父」だけだということを覚えておきましょう。そして冒頭のみことばで言わんとしているのは、「天の父」の教えを受け、それに従うときに真の意味合いで、神さまはお一人一人の「天の父」になってくださいます。しかしそうではなく、天の父の教えよりも、器の言うことを優先したり、聖書の御教えを守らない、行わない、というときに残念ながら、「天の父」ではなく、別の父を父としてしまう可能性があるでしょう。別の父とは、どんな父か?と言うと、サタンとか悪霊だと思います。そうすると天の御国に入るのは厳しくなってしまいますので、もしお心当たりがありましたら、直ちに方向を変えていきたいと思います。ぜひ生涯にわたって天の父を父とした歩みをして、御国を受け継いでいきたいと思います。よろしければ、このようなこともご理解いただけると幸いに思います。