聖書箇所 マタイの福音書24:35

 

24:35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

 

「神のことばに望みを置く」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

「天地」は、「教会」を指すたとえです。ゆえに、「天地は滅び去る」とは、教会が滅ぶ、ということを言われております。突然そんなことを言われても、「ハァ?何それ?」と思われるかもしれません。しかし聖書にこのように書かれている以上、こういうこともいずれ成就する、という風にとらえていきたいと思います。

 

それでは教会が滅ぶ、とは、具体的にどんなことを言われているのでしょうか?そのことを少しずつ見ていきたいと思います。ちなみに「滅び」「滅びる」のところは、KJV訳では、「去る」「終わる」「すたれる」とあります。このマタイの福音書のはじめのほうにも、じつは同じようなことが書かれていますので、少し見てみましょう。

 

参照 マタイの福音書24:1,2

24:1 イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。

24:2 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

 

ここでは宮が崩される、ということを言われています。先ほどの「天地」と同様、「宮」も教会のことを指します。「石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません」のことばは、「この天地は滅び去ります」と同じ意味合いです。つまりここでも、教会はいずれ終わりが来ますよ~、ということを言われているのです。いつ、そうなるのか?についてのヒントが以下に書かれております。

 

参照 マタイの福音書24:3

24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

 

「あなたの来られる時」とか「世の終わり」ということばとありますが、「あなたの来られる時」とは、「キリストの再臨」のことを言われていると思います。そして、「世の終わり」とズバリ言われていますように、キリストの再臨の間近のこと、すなわち終末のことを言われています。ゆえに終末にこのことが起きる、と言えます。ただし、このことは主イエス・キリストの初降臨の時、つまり旧約時代の末に、まず起きました。それこそ当時のパリサイ人や律法学者のように聖書のみことばの専門家が、宮、すなわち教会で毎週の安息日ごとに会衆を教え、導いていたわけですが、しかしイエスさまは彼らに対して、「ゲヘナの子」と言いました。どんなメッセージが語られていたのかは分かりませんが、「彼らは人間の教えを、教えとして教えるだけだから」とイエスさまがおっしゃっていましたように、聖書のことばを読みながらも、しかし実際には神さまからではない教えを語っていたのでしょう。そういう彼らに対してイエスさまは、「おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。」と言いました。神の宮、教会で人々を教えながらも、しかしイエスさまや神さまの前の実質は、「ゲヘナの刑罰」の教えだったのでありました。建物としては恐らく申し分の無い「宮」だったのでしょう。しかし神さまの前の実態は崩れていたのでした。ゆえに冒頭のみことばは、第一義的には主の初降臨の時に成就しました。けれどもそれで終わるわけではなく・・・それこそ聖書は旧新約の両方から成り立っていますので・・・そして当然、旧約時代の終わりがある、ということは新約時代の終わりというのもあるわけですので・・・このことは私たちの時代の終わりにも再現すると思われるのです。ですから、「あなたの来られる時」とは、ひとつは主の初降臨のことを指し、もうひとつは、まさに再臨のことを言われていると思うのです。そして、「世の終わり」とは、旧約&新約のそれぞれの終末について言われていると思います。ゆえに、「石が崩されずに~決してありません」のことばは、二重に成就すると思われるのです。

 

今、現にそういうことは起こりつつあると思います。たとえば某教団においては、同性愛の男性を招いてメッセージをさせているそうです。また、ローマ・カトリック教会は、「進化論は正しい」と言っているそうです。このようなことは、まさに聖書のことばを否定するものであり、教会の変質を物語るのでは?と思います。そうなんです。たった一例ではありますが、しかしこのようなことによって、教会はだんだんと滅びに向かっていっているのです。それこそ聖書の教えではなく、いずれも人の教えや考えですよね?なので、建物としての教会は残るかもしれませんが、しかし神さまの前の実質は滅びとか、すたれとか、終わりなのであります。そしてまさに、世の終わりに成就していますよね?また、黙示録にもそれらしいことが書かれていますので、少し見てみましょう。

 

参照 ヨハネの黙示録6:14

6:14 天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。

 

ここでも、「天」ということばが使われています。「天」とは、先ほども話しましたように、「教会」を指すたとえです。「巻き物」は、「聖書」のことです。「天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、」とは、教会において聖書のことばが消えていく、というようなことを言われているのでしょう。「山」とか「島」にもたとえが使われていて、これらもまた、「教会」のことを言われています。「すべての山や島がその場所から移された」とは、すべての教会は本来あるべき位置から移動した、ということなのでしょう。このことはつまり、教会の変質を物語っていると思います。また、このこともマタイの福音書の教会の滅びやすたれや終わりのことを言っていると思います。

 

残念ですが・・・しかし聖書にこのように書かれている以上、教会はそんな風になっていくのでしょうし、現に一部の教会においてはすでに成就しつつあるように思います。けれども、「わたしのことばは決して滅びることがありません」のことばに目を向けるなら大丈夫です。教会、また、クリスチャンは変質してしまうかもしれませんが、しかし唯一、神さまのことばだけは決して滅んだり、すたれたり、終わることはありませんので、このことを信じ、望みを置いていきたいと思います。あってはならないことではありますが、しかし残念なことに、教会とかクリスチャンは変質していくと思われます。でも、神さまのことばに望みを置くなら、つまずいたり、倒されたりすることはありませんので大丈夫です。反対に、周囲に巻かれてみことばを投げ出してしまうときに、永遠の命が危なくなってしまいますので、そのあたりは気を付けていきたいと思います。もちろん教会や周囲のクリスチャンが正しいのであれば、くっついていくことをおすすめしますが、しかしみことばに反しているかな?と思われることは拒否していくことをおすすめいたします。

 

繰り返しますが、みことばは明らかに教会が滅ぶこと、すたれること、終わることについて述べています。このことは信じがたいかもしれませんが、しかし徐々に成就しつつありますので、そのあたりは霊の目をもって正しく判断していきたいと思います。一昔前においては、教会の滅びとか変質とかは無かったかもしれませんが、しかし世の終わりにおいてはそうではない、という概念は多少なりとも持っていきたいと思います。そして決して変わることのないみことばに望みを置いて、永遠の命を得ていきたいと思います。