聖書箇所 マタイの福音書28:14

 

28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。

28:2 すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。

28:3 その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。

28:4 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

 

「『いなずま』『白い衣』ということばを通して語っていること」というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。

 

この箇所は、彼女たち(マグダラのマリヤと、ほかのマリヤ)が復活されたイエスさまに会う前に起きた出来事のことを述べています。イエスさまの亡骸を見ようと墓に行った彼女たちではあったのですが、その時に大きな地震(KJV:巨大地震)が起きました。その理由として、「それは、主の使いが~すわったからである」ということが述べられています。そして今回は、主の使いがいなずまのように輝いていたこと、また、その衣は雪のように白かったということに目を留めて、主がこのようなことを語っているかなぁと思うことについて話したいと思います。

 

繰り返し語っているようで恐縮ではありますが、レムナントキリスト教会では聖書の大半のことばは多くのたとえが用いられていると理解しています。そして、今回の「いなずま」と「衣」もそうではないかと思いますので、少し説明したいと思います。

 

まず、「いなずま」は、「雷」と関係することばですよね?また、「雷」は「雨」と関連することばですよね?ゆえに「いなずま」とは、「霊的な事柄」を指すたとえではないかと思います。そして、どんな霊なのか?「霊」と一口に言っても、「聖霊」と「悪霊」があります。このどちらかの「霊」であることはたしかなのですが・・・また、「御使い」のことが出てきていますが、「御使い」も主に属する良い御使いもいれば、サタンと呼ばれる悪い御使いも存在します。そしてここに登場する御使いや霊はどこから来たのか?と言うと、「主の使い」とありますように、また、「天から降りて来た」と言われていますように、神さまからのものであります。ちなみに英語では、“for the angel of the Lord descended from heaven”とあります。“of the Lord descended from”ともありますように、「神の系統を引いている御使い」と訳せますが、つまり神さまのような御使いだと理解できますよね?ですから、ここでの「いなずま」は、良い霊、すなわち聖霊について言われているということがお分かりになると思います。

 

続いて、「衣」に関しても見たいと思います。ここで衣について「雪のように白かった」と言われています。たしかに「雪」は白いですよね?そしてこの「白」ということばもたとえの意味合いがあって、「義」を指します。ゆえに、「衣」とは、「義の衣」のことを言われています。そして先ほどの「いなずま」(聖霊)と「衣」(義の衣)は、どうもセットであることが言われているように思います。

 

さて、このこと、すなわち主が十字架にかかったあとに雪のように白い衣を着て、いなずまのような輝きをした顔の御使いが登場した、ということを一面言われていることはたしかではありますが、しかし、この御使いのことを通してもう一面語っていることがあるように思えます。当たっているかどうかは分かりませんが、私個人としては、このようなことも言われているのでは?と思いましたので、お話させていただきたいと思います。

 

マグダラのマリヤとほかのマリヤのように、神の霊を受けて義の衣をまとっている御使いにお会いできることは光栄であり、とてもすばらしいのは事実ですが、けれども、そうではない人も中にはいる、と思うのです。その根拠となるのは、4節のみことばです。番兵も彼女たちと同じように、御使いを見ました。つまり御使いに会ったのでした。5節で御使いが「恐れてはいけません」と言われていますので、両者(彼女たち&番兵)共に御使いを見て恐れたのはたしかなのですが、しかし「番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」とありますように、番兵たちは死人のようになってしまいました。このことを通して神さまからの語りかけを受けたように思いました。

 

その前に、神さまに遣わされた御使いとは、天使のことを一面言われていますが、しかしこのことはもしかすると聖霊の臨在の中を歩むクリスチャンのことをも言われているのではないかなぁ?と思いました。皆さまもご存知のように、イエスさまを信じるクリスチャンにとって聖霊の臨在はすばらしいですよね?しかし、このことはある種のクリスチャンにとっての話なのでは?ということをこの箇所を通して思いました。それはこういうことです。マグダラのマリヤのことを皆さまはある程度ご存知だと思いますので、あえて説明するまでもありませんが・・・彼女は他の誰よりもイエスさまのことを深く愛しました。このことは聖霊の臨在の中を歩むクリスチャンの型ではないかと思います。そして彼女のような歩み、すなわち主の臨在に留って歩みをするクリスチャンにとって、「いなずま」(聖霊の臨在)とか「衣」(義の衣)というのは、祝福や恵みや喜びになるのだと思います。

 

けれども一方、そういった良いものが、番兵たちのように、かえって「死人のように」なってしまうクリスチャンもいるのではないかと思います。「死人」とは、実際に肉体が朽ちることも言われていますが、聖書では、肉体は生きていても霊的に死んでいるという意味合いとしても使われています。ゆえに、主の臨在に留まっていなかったり、義の衣を着用していない、すなわち霊的に死んでしまっているクリスチャンにとっては、必ずしも祝福や恵みになるとはかぎらない、ということをも言われていると思います。ですので、クリスチャンと言っても一様ではなくて、聖霊の臨在を歩むクリスチャンとそうではないクリスチャンとがいる、ということもご理解いただけるのでは?と思います。そしてここに登場する御使いのように、聖霊の臨在を歩むクリスチャンは神さまの前に尊ばれますし、すばらしいことではあるのですが、しかし反面、聖霊の臨在の中を歩んでいないクリスチャンとっては必ずしもそうとは言えないのでは?と思います。つまり聖霊の臨在を歩むクリスチャンというのは残念ながら、聖霊の臨在を歩んでいないクリスチャンにとっては仇となり、はたまた霊的に死んでしまう可能性がある、ということを言われているのでは?と思います。

 

そのことがまさにイエスさまの時に起きましたよね?イエスさまは神さまの御子、つまり神さまですので、それこそ聖霊に満ち溢れていました。けれども当時のすべての神の民に喜ばれたか?と言うと、そうではありませんでしたよね?12弟子やマグダラのマリヤをはじめ、一部の人たちには受け入れられたのは事実でしたが、しかし、律法の専門家であるパリサイ人や律法学者をはじめ、大半の人々には反対に拒絶されてしまいました。彼らにとって、イエスさまの存在は喜びや祝福ではなく、災いとなってしまったのです。なぜでしょうか?ズバリ!彼らは御心を行っていなかったからでした。口先では神さまを愛していましたし、律法の専門家でもありましたので聖書のことばや教えにも精通していました。けれども心は神さまから遠く離れており、御心とはズレた歩みをしていました。ゆえに彼らにとって、イエスさま、すなわち神さまの臨在は大いに仇となってしまったのです。もし、彼らが聖霊に満ち溢れて義の衣を着用していたのでしたら、そういう結果にはならなかったと思います。けれども、そうではなかったがゆえに、キリストを異端と呼んだり、ベルゼブル(悪霊)扱いをしたり、排斥したりして、さいごは十字架に付けて殺してしまいました。

 

そしてこのことは、イエスさまの初降臨の時だけではなく、終末にも同じようなことが起きてくると思われます。黙示録には「男の子」についての記述があり、このことを通して未来に起きてくる預言について語られているからです。「男の子」は聖霊の臨在に溢れ、義を行うクリスチャンの型であります。けれども、「その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。」(ヨハネの黙示録12:5とありますように、殉教します。しかも男の子は、ソドム、エジプトと呼ばれる都で殺されます。その場所に関して、「彼らの主もその都で十字架につけられたのである。」(ヨハネの黙示録11:8と述べられています。つまりこのことはまさに、かつてのイエスさまの十字架殺しの再現なのでは?と言えると思います。申し上げたいことは、終末も聖霊の臨在、つまり聖霊によって歩むクリスチャンが、そうではないクリスチャンにとっては仇となり、災いとなり、それが最悪死にまで至る、ということを言われていると思います。しかしイエスさまの時がそうであったように、それこそ主の十字架殺しに加担した人々は、のちにローマ軍によって皆滅ぼされてしまったように、終末においても正しいクリスチャンを迫害したり、訴えたり、はたまた死に至らせてしまった人々は、いくらクリスチャンと称していても、同じくさばかれてしまう可能性がありますので、気を付けていきたいと思います。ですからまかり間違えても、聖霊の臨在の中を歩んでいるクリスチャンに対して、間違えた対応をしてしまってはいけません。そうしてしまうときに、「死人のようになり」ということばが、成就してしまう可能性があるからです。そのあたりは、よくよく気を付けていきたいと思います。

 

今回のポイントをまとめます。聖霊の臨在&義の衣はクリスチャンにとってすばらしいものであり、そのようなことに徹して歩むべきではあるのですが・・・しかしそうではないときに、そのことが災いや仇となり、そしてそれに留まらず、反対にそういった歩みをしている人たちを異端と呼んだり、ベルゼブル扱いをしたり、はたまた排斥してしまったり、死罪に定めたりしてしまう可能性がありますので、このことは正しくとらえておきたいと思います。特に艱難時代は、このような傾向になっていくと思われますので、そのあたりは注意していきたいと思います。でも、一方、マグダラのマリヤとかほかのマリヤとか、12弟子のように、聖霊の臨在の中を歩んでいるときに、こういったことから守られていきます。また、そのように歩んでいる人たちを助けたり、もてなしたりしていくときに、それはそのまま祝福や恵みにつながっていきます。特にそういう風に歩んでいるクリスチャンが弱っていたり、困っていたりする時に、手を差し伸べていく人は非常にポイントが高いと思います。聖書には、「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイの福音書10:42ということも言われていますので、聖霊の臨在の中を歩み続けていくこともそうですが、一面、そういったことにも気遣っていくことにもぜひ、目を留めていきたいと思います。そして「その人は決して報いに漏れることはありません。」とありますように、それはそのまま天の御国に直結していくのでは?と思いますので、ぜひおすすめいたします。

 

そして繰り返すようで恐縮ではありますが、その反対のことをしてしまうときに・・・すなわち神さまの臨在の中を歩んでいるクリスチャンに対して何らか害を加えてしまうときに、後に悪い意味合いで報いを受けてしまう可能性がありますので、それは避けていきたいと思います。よろしければ、こういうこともご理解いただけると幸いに思います。