聖書箇所 マタイの福音書3:1012

 

3:10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

3:12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

 

「実を結ばないなら」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

上記みことばで、「切り倒される」とか「火に投げ込まれる」とか「火で焼き尽くされる」とか、何かこう、あまり良くない表現が使われているのにお気付きでしょうか?レムナントキリスト教会では、たとえの意味合いを神さまに尋ねて色々と教えていただいているのですが、かつて私がまだ既存の教会にいた頃は、このような事柄は他人ごと思っていました。しかもたとえの意味合いを理解していなかったので、危機感すら感じていませんでした。しかし・・・ここにもたとえの意味合いが使われていて、はたまた自分にも大いに関係があるということを知って、若干背筋がゾクッとするものがありました。

 

では、みことばを学んでいきたいと思います。たとえの意味合いも見ながら、順に見ていきましょう。

 

3:10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

 

ここで「木」とか「実」ということばが出てきます。さらに「火」ということばが出てきます。教会は「大森林」にもたとえられていますが、「大森林」は「木」の集まりなので、「木」とは「クリスチャン」のことを指します。「実」は、「御霊の実」のことです。「火」は、「霊的」な事柄も指しますが、この場合は、「ゲヘナ」(火の池)のことを言われています。つまりここで言わんとしているのは、クリスチャンであっても、「御霊の実」を結ばないなら、ゲヘナ(火の池)に入ってしまうということです。「えっ?何?クリスチャンは皆天国に行けるんじゃあないの?」と言われるかもしれませんが、このところのたとえの意味合いを理解するなら、そうではなさそうです。このことばは、バプテスマのヨハネが言われたことです。その前に、ヨハネは人々に「悔い改め」を促していました。つまり良い実を結ばない木になることのないように、「御霊の実を結んでいない者は、悔い改めてきちんと結ばせよ!」ということを言われているのです。次を見ましょう。

 

3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

 

ここでもヨハネは「悔い改め」について語っています。続いてイエス・キリストがどのようなお方であるのか?ということについて説明しています。ヨハネはキリストのことを、「聖霊と火のバプテスマを授ける方」だと言っています。ノンクリスチャンからクリスチャンになるときに、多くの人は「洗礼」を受けます。それも「バプテスマ」と呼ばれます。それはノンクリスチャンの時の自分と別れてクリスチャンとしての歩みを始めますよ、という表明をするために受けるものです。でも、「バプテスマ」はそれで終わりではない、ということを聖書は語っています。ヨハネを通して、「水」の他に、「聖霊」と「火」のバプテスマが存在することを言われています。そして聖書はこちら側を重要視しています。今回の主旨とは少し外れますが、参考までに「聖霊」と「火」のバプテスマとはどういうものなのか?と言うと、バプテスマ、浸されるとの意味合いどおり聖霊に浸されることです。

 

最後を見ます。

 

3:12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

 

農産物の麦もそうですが、麦が成長して食品として扱えるようになったら、麦を脱穀場に持っていき、食べられる部分と、そうでない部分の仕分けが行われますよね?その際、食べることのできない部分は、すべて廃棄されますよね?でも、食べられる部分は一旦倉庫に集められますよね?そんなことを例に出しては何ですが・・・じつはクリスチャンも後の世において、「選り分け」がなされるのです。どのように?その答えが上記みことばにあります。「手に箕を持っておられ」とありますが、イエスさまがそのことをなさるのです。ちなみに「麦」は「穀物」である「パン」をも指します。そして「パン」はみことばにたとえられます。さらに言うと、クリスチャンは「パン」(みことば)によって育てられます。ゆえにここで言われている「麦」は「クリスチャン」のことを言われています。また、「麦」といっても、一色単ではなく、二種類の麦があることを聖書では語っています。他の箇所で「良い麦」と「毒麦」について書かれていますが、「良い麦」はイエスさまに属するクリスチャンのことを言われていて、上記に「麦を倉に納め」とありますように、天の御国に入ります。一方、毒麦は「父」といっても「天の父なる神」ではない、いわば「悪魔」を父とするクリスチャンのたとえですが、上記みことばによると「麦」の「殻」にたとえられます。ゆえに「倉」に納められることはなく、「消えない火」で焼き尽くされるのです。これは恐ろしいことです。「消えない火」とは「永遠の忌みの場所」、つまり「火の池」とか「ハデス」(地獄)と呼ばれる所に入れられてしまうのです。しかも「消えない」と言われているように、「火の刑罰」は永遠に続くのです。なので、そのようなことは回避しなければいけません。そう、「良い麦」は「実」の部分、つまり「御霊の実」を結ぶクリスチャンのことを言われていますが、しかし「毒麦」は「殻」の部分、すなわち「実」が無いことから、「御霊の実」を結んでいないクリスチャンになりますので、そのまま生涯を終えてしまうときに、恐ろしい結末を迎えてしまう可能性があるのです。このことは何が何でも避けなければいけません。

 

もし、そのように理解するなら私たちは何はさておき、「御霊の実」を結ぶことを考えていくべきなのではないでしょうか?もう、すでに結んでいると言われる方はともかく、しかし万が一にも、「結んでいないかも知れない」なんていうことにお心当たりがありましたら、ぜひ結ばせていけるように祈り求めていきたいと思います。偉そうな言い方で恐縮ではありますが、何事も気付いた時が勝負です。今まで、ほんの少ししか結んでいなくても、あるいはゼロであっても、今からでも全く遅くはありませんので、日々の祈りの中で御霊の実を求めて、聖霊にあって結ばせていきたいと思います。聖書の中で、「御霊の実」について熱心に求めていくことが奨励されていますので、このことはぜひぜひ実践していきたいと思います。また、すでに結ばせている方も、引き続き求めていきましょう。ヨハネの福音書の中で、イエスさまはさらに実を結ばせるために、刈り込みをなさるということを言われていますので、主の言われた通り、さらに結ばせることができるように祈り求めていきましょう。結論を言ってしまうと、「御霊の実」を結ばせるか否か?は、後の世にどちらに行くか?の判定材料として大いに用いられるようですので、このことを正しくとらえてしっかりと行っていきたいと思います。もし御心を感じましたら、ぜひ実践してみてください。

 

最近レムナントキリスト教会の礼拝のメッセージの中で、「実を結ばせる」ことの大切さについての学びをしました。その時にエレミヤ牧師が、「実は刈り取られて天の御国に入りますが、殻や穂は刈り取られません。つまりこれでは御国に入らない可能性がありますので、実を結ばせていきましょう!」というおすすめをされていましたが、まさしく「そうだなぁ」と思いました。今回の箇所を通しても神さまが本当にそんな風に語っていると思いましたので、祈り求めていきたいと思います。いつも大事なポイントを語ってくださる神さまに感謝いたします。