聖書箇所 マタイの福音書5:4345

 

5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

 

「神の子となるために」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

ごくごく当たり前のことではありますが・・・私たちが親の遺産を受け継ぐ、という場合に「子ども」であることが条件となりますよね?それと同じように、霊の親(天の父)の財産を相続するというときに、私たちが「天の父の子ども」であることが必須となります。ちなみにクリスチャンの綴りは、英語で“Christian”となります。よく見ると、“Christ”(キリスト)の名前が入っています。また、キリストは神さまの御子であられますので・・・ゆえに私たちもクリスチャンに新生した段階で、「神さまの子」(英語:養子縁組)という風に見なされるのです。ただし、よくレムナントキリスト教会のエレミヤ牧師がメッセージでも言われていますように・・・私たちがノンクリスチャンからクリスチャンへと生まれ変わるというのは、それは単なる一歩に過ぎず・・・要はクリスチャンとしての歩みがスタートしたに過ぎない、もっと言えば、クリスチャンに新生することは、それはそれでひとつのことであって、天の御国を受け継ぐのは、また別のことである、とそのようにご理解いただきながら共に学びができれば・・・と思います。

 

「クリスチャン」と聞くと、それは皆無条件に「神さまの子」であると、そしてエスカレーター式に天の御国に入れると、多くのクリスチャンはそのように思っているかもしれません。かつての私はまさにそう思い込んでいました。けれども色々と学びをしていく中で、そして冒頭のみことばを通して、それは違うのでは?と思うようになりました。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのですと書かれているからです。「へぇっ?」と思うかもしれません。イメージとしては、毎週礼拝に欠かさずに行く、奉仕をする、お祈りをする、賛美をする、聖書を読む、慈善事業をする、献金をする、そういうことを忠実に行っている人が、神さまの子どもだと思うかもしれません。もちろんこういうことも大事だと思います。クリスチャンになったら、少しずつでも実践するべきことではあるのですが・・・しかし、神さまの子どもとなるために、もっとも大事な事柄が今回の箇所で言われています。もう一度言います。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈る」ことです。

 

多くのクリスチャンはこのみことばをご存知だと思います。私も大分前から知っていました。けれどもそのことが、「天の父の子ども」になれる条件だと知ったのは、つい最近のことでした。ちなみに44節のところをKJV訳で見ると、これらのことばに加えて、「あなたを呪う者や意地悪をする人のために祈りなさい」ということも言われています。もし、これらの条件を満たすなら、「天の父の子どもになれますよ~」ということを言われているのです。ですからこのことに目を留め、心を留めていかなければいけません。もし、「天の父の子ども」と神さまから見なされない場合に、天の御国を受け継げない可能性があるからです。それこそこの世においても遺言書で、「財産は実子にのみ譲る」とあった場合にそれ以外の立場の人が受け継げないように、天の父の財産も同じことが言えると思います。つまり自分の敵を愛する人、そして迫害する者や呪う者や意地悪をする人のために祈る人が、天の御国を受け継ぐのだと思います。「ええっ、信じられない!」と思うかもしれませんが・・・それに関して裏付けているかな?と思うみことばがありますので参照してみましょう。

 

参照 ガラテヤ人への手紙5:21

5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、

5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、

5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

 

このみことばが、いったい何の関係があるのか?!と思うかもしれません。ですが、よく読むとですね、「ああ、そうかぁ・・・」と思えることが言われているのです。20節の「敵意、争い、そねみ」のことばに目を留めてください。もし、誰かがあなたのことを迫害したり、意地悪をしたりするとします。その時、相手と同じような態度を取ったとします。仕返しまではしなくても・・・しかし相手のことを忌み嫌ったり、呪ったりする場合に、それこそ敵を愛さずに祝福を祈らないというときに、神さまの前に「敵意、争い、そねみ」を抱いているという風に見なされてしまうのです。そしてそのまま進んでしまうときに、21節に書かれているように、「神の国」を相続できなくなってしまうのです。「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」とハッキリと書かれているので、恐れを持ちたいと思います。たしかに私たちの生まれつきの性質は、冒頭の43節のみことばに書かれている通りであります。自分の隣人を愛し、敵を憎む者なのです。けれどもこれは生まれつきのもの、つまり「肉の性質」なのであります。そして再びガラテヤ人への手紙に戻りますが、19節のところで「肉の行ない」ということが書かれていますように、「自分の敵を憎む」のは、そのまま「肉の行ない」に通じていくものとなります。さらに残念ながら、「肉」は神さまに受け入れていただくことも、喜んでいただくこともできません。その究極が先ほどの、「肉の行いは明白であって、神の国を相続できません」ということばに結び付いてしまうのです。しかし、そのあとにこのように書かれています。

 

参照 ガラテヤ人への手紙5:2226

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

5:26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

 

24節のみことば、「自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」に目を留めてください。本来は自分の敵となる相手のことは憎みたい、その人のために祈るなんてもってのほか!なのですが、けれどもそういう思いを「十字架」に付けてしまうのです!「そんな簡単に出来るわけがないでしょう?!」と言われかもしれません。たしかに生まれつきの性質では厳しい・・・と言うか、ハッキリ言って無理だと思います。けれどもそれができます~、というヒントが22,23節に書かれていて、「御霊の実」によってそれが可能になるのです。このことを真剣に求めていくのなら、自分に対して不当なことをした相手のために祝福を祈ったり、はたまた愛したりすることができるのです。そうしていくときに25節で言われているように、「御霊」によって生き、導かれ、進んでいけるのであります。そしてこのことを実践していくのなら、そのまま「神さまの子ども」となり、天の御国を相続できるのです。この世の考えとは全く逆ではありますが、しかし実践していくに値するものだと私個人は思います。なぜなら「天の御国」に直結する事柄だからです。

 

再度重ねて申し上げます。「天の父の子ども」となるための条件は、自分の敵となる人を愛すること、その人のために祈ることです。そしてこのことは、先ほど申し上げたように、「御霊の実」によって実践できる事柄であります。そのために「御霊の実」を熱心に求めていきたいと思います。そうしていくときに、ごく自然にそんな風に実践できるようになっていきます。何と言っても「御霊の実」は、この世のものとか私たちの生まれつきのものではなく、天からのものなので特別な努力をしなくても大丈夫です。極端なことを言えば・・・祈って求めているだけで、神さまが私たちを通してなしてくださるのです。ただし、私たち側のほうできちんと祈り求めていく、という努力は日々必要だと思います。なぜなら今現在この世を支配しているのは、「空中の権威を持つ支配者」すなわち「サタン」なので、基本的には私たちを「肉の行い」に引っ張る力のほうが強いからです。でも、心を尽くして祈り、このことに思いを馳せていくなら、神さまは憐れんでくださって「御霊」を注いでくださり、そして私たちが敵をも愛し、祈りができるようにしてくださるのです。

 

反対に・・・いくら相手が悪いと言っても、許さなかったり、呪ったり、祈らないというときに、「天の父の子ども」となることはなく・・・そうすると誰の子なのか?と言うと、「サタンの子」と見なされてしまい、御国に入れなくなる可能性がありますので気を付けていきたいと思います。よろしければこういう点もご理解いただけると幸いに思います。

 

ある時、礼拝のメッセージでエレミヤ牧師がこのようなことを言われていました。「私はお一人一人のためにお祈りしています。リストを見ながら祈っているのですが、しかし自分を裏切った人や嫌な目に会わせた人のためにも祈っています。そういう人も滅んで欲しくないからです」ということを語っていました。そのことを聞いて、「偉いなぁ」と思う気持ちと、それと同時に、「たしかにそうだ!神さまはすべての人に救われて欲しい。真理を見て欲しい。永遠の命を得て欲しいと思われているのだから、実践していかなければ・・・」と思いました。人間の思いとしては、裏切ったり、嫌な目に合わせたりした人のことなんて放っておきたい!と思うのですが、でも、どれもこれも聖書は逆説的なんだなぁということを思わされました。そしてエレミヤ牧師が語ったことと、今回のみことばのことはオーバーラップするのでは?思います。こういうことを遅ればせながらも最近少し気付きを与えていただきましたので、また、とても大事なことだと思いましたので、お祈りの中で少しずつでも実践できたらなぁと思います。いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。