聖書箇所 マタイの福音書6:1924

 

6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。

6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

6:22 からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、

6:23 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。

6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

 

「心の居所はいずこへ?」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

上記みことばは有名な箇所なのでご存知の方が多いと思います。このことはイエスさまが言われました。ここで「宝」とか「たくわえる」ということばが使われています。これらのことを通して、神さまがこんなことを語っているかな?と思うことについて話をしたいと思います。

 

ここで、「自分の宝を地上にたくわえるのをやめなさい!」ということが言われています。これってつまり、貯蓄ばかりに目が向いてしまったり、宝石とかダイヤモンドとかそんなものばかりに興味を持つな!ということを言われているのでしょうか?それも一理あるかもしれません。たしかにヘブル人への手紙には「金銭を愛する生活をしてはいけません」ということが書かれていますので、そうなのだと思います。ただし、レムナントキリスト教会でよく言っていますように、聖書は表の意味合いを理解するのと同時に、それだけではなく隠された意味合いもあります。それは、たとえの意味合いとか奥義とか言われる部分です。そしてもしかすると今回の箇所も、そういったことを語っているかもしれませんので、それも見てみたいと思います。

 

「宝」ということばですが・・・先ほど申し上げたように、お金とか自分の財産とかも含むかもしれませんが、21節を読むとそれだけを言われているのではないことが分かります。

 

6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

 

何とも聞きなれないことかもしれませんが、「宝のあるところに、心もある」とのことばに目を留めてください。うまく説明できませんが、「宝」とは、金銀のほかに、「心の居所」をも指すのではないかと思います。言わんとしていることは、恐らくこういうことなのではないかと思います。「あなたの心はどこに向いていますか?」ということではないでしょうか?そのあとの節では「目」について言われています。

 

6:22 からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、

6:23 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。

 

当たり前のことですが、「目」はあらゆることを見るためにあります。しかしここで「目」に関連して「からだ」ということばが出てきます。「からだ」とは、「肉体の体」のこともありますが、しかし聖書において「からだ」に関してもいくつかのたとえがあります。そのひとつとして、エペソ人への手紙に、「教会はキリストのからだであり」とありますように、「教会」のことを言われています。そしてまた、「クリスチャンは神の宮」とも言われていますので、個々におけるクリスチャンのことをも指すのでしょう。さらに言うなら、「教会」も「クリスチャン」も、霊的に健全に建て上げられるためには、霊的に正しく見ることが大事なポイントになります。つまりここで言われている「目」とは、「霊的に見る」ということをも言われているのではないかと思います。「目が健全なら~明るいが」とは、もし霊的に正しく見ることができるなら、真理の光を照らすことができることを言っているだと思います。けれども、「目が暗ければ~暗いでしょう」ともあり、これはつまり霊的に正しく見えないというときに、真理の光が無い、ということを言われているのでしょう。これってどうでしょう?霊的に正しく見る、見ない、というのは、ある意味クリスチャンの死活問題に関わってくるのでは?と思うのですがいかがでしょうか?

 

そして先ほどの「宝」と「目」が、どんな関連性があるのか?ということですが、もし、私たちの心の居場所がイエス・キリストにあるのなら、真理の光を見ることができるのです。そして光の中を歩み、しかもそれだけに留まらず、人々に正しい方向性を示すことができるのです。しかし、私たちの心がイエス・キリストに向かない場合に、残念ながら真理の光を見ることはできないのです。何が真理なのかを理解できないので、正しい方向性を示すことができません。はたまた場合によっては間違えた方向を示してしまう、なんていうこともあり得るのです。これは大変なことです。当時の律法学者やパリサイ人がまさにそうでした。彼らはイエス・キリストを目の当たりにしながらも、キリストを救い主として認めることができませんでした。たしかに彼らは神を崇め、毎週ごとの安息日には会堂で聖書を用いて人々を教えていました。けれどもイエス・キリストを認めなかったので、キリストに心は向いていませんでした。キリスト以外の別のものに心を向けていたために、真理を悟ることも理解することもなかったのです。そして挙句の果てには、神の御子であるイエス・キリストを十字架に付けて殺してしまったのです。その結果、彼らの行き先は「天の御国」ではなく、「永遠のさばき」(火の池)となってしまったのです。

 

いかがでしょうか?「光が暗い」、すなわち真理の光が無い、というときに、あわや「永遠の命」を落としてしまうので、恐ろしいことですよね?

 

では、彼ら、律法学者やパリサイ人の轍を踏まないようにするためにはどうすれば良いのでしょうか?心をキリストに向ければ良いわけですが、それは具体的にはどういうことなのでしょうか?そのヒントとなるのが24節のみことばではないか?と思われます。

 

6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

 

「神にも仕え」とありますが、神に仕えることが、キリストに心を向けることなのでは?と思います。また、「仕える」とはどんなことなのか?と言うと、「御心を行う」ことです。先日、レムナントキリスト教会の礼拝のメッセージで第一ペテロの手紙を通してみことばに従わないからつまずく、ということを学びました。もし、真理を見たい!真理の光の内を歩みたい!と思われているのでしたら、「御心を行う」ことに目を留め、心を向けていくことにポイントがあります。そう、「神に仕える=御心を行う」ことなのです。このことは、宝のある場所、すなわち心の居場所がキリストにある、ということにそのまま通じるのです。そして生涯にわたって全うしていくのなら・・・さいごまで心をキリストに向けていくのなら、もっと言うなら御心を行うことに徹した歩みをしていくのなら、その延長線上において「永遠の命」が約束されるのです。しかしその反対に、心がいつもキリストから離れているなら、つまり神さまの御心を行うことを拒否したり、目を留めないというときに、「永遠の命」を得るのは難しくなってしまうでしょう。なぜか?先ほども話しましたように、御心を行わないなら「真理の光」に辿り着くことは厳しいので・・・そして「真理の光」を見なければ神さまの御心を理解することはできないので・・・理解できないのなら、真理の光の内を歩むことは不可能と思われますので、いくらクリスチャンと言っても、「永遠の命」に至るのは厳しいと思います。

 

以上のことから、そして話は前後しますが19節に書かれている、「地上に宝をたくわえる」とは、神さまの御心を行うことよりも、まずは自分のやりたいことを一番にしたり、自分の考えで歩みを進めていったりと、要はあらゆることにおいて、「とにかく自分が一番。まずは自分の思いを満たすことを優先する」ことを言われているのではないかと思います。けれどもそういう歩みに対して「虫とさびで、きず物になる」というのが聖書の主張であります。ちなみに「きず物」のところは、KJV訳では「堕落」とか「邪悪」ということばが使われています。また、このことばに関して、イエスさまは律法学者やパリサイ人に対して、「あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。」と言いました。イエスさまから「邪悪」だと言われたのです。そして彼らの末路は先ほども話しましたように、「永遠のさばき」(火の池)となりました。つまり彼らは天の御国を失敗した型なのであります。しかしながら、私たちも神さまから「邪悪」だと判断されてしまった場合に、悪い意味合いで彼らと同じ足跡を辿る可能性がありますので気を付けていきたいと思います。ですので繰り返しになりますが、ぜひ天に宝をたくわえることに心を向けていきましょう。そう、神さまの御心を行うことに思いを向けていきたいと思います。もし、そうかもしれない・・・なんて思われましたら、ぜひ実践してみてください。

 

先日、礼拝のメッセージで「主に仕えていく」ということの学びをしました。その時エレミヤ牧師が、「主に仕えていくというときに、自分のやりたいことを優先していたらそれは全うできません」ということをおっしゃっていました。このことは、今回の箇所と若干似ているのでは?あるいは同じようなことを言っているのでは?と思います。また、大分前に「片手間では、主に仕えていくことはできません」とか「野放図に歩んでいたら神の働きは全うできません」ということもおっしゃっていたのですが・・・自分もおよばずながら弟子の歩みをしていて感じることは全くその通りでありまして・・・ただし、そういうことを頭で分かっていても、自分の思いとかやりたいことを優先してしまうことがあるのですが、必ずと言ってよいほど真理からズレてしまいます。そのたびに、「ああ、そうだ。神さまのことを優先しなければ!」ということを思い起こしています。

 

今回の箇所やエレミヤ牧師の数々のメッセージを通して改めて、イエスさまにお仕えしていくことに心を向けていけたらなぁ、求めていけたらなぁと思いました。それこそ第二テモテの手紙には、「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。」ということが言われていて、終末はそういうことに陥りやすい時のようなので気を付けていきたいと思います。いつも大事なポイントについて語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。