聖書箇所 マタイの福音書7:1,2

 

7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。

7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。

 

「人をさばいてしまうときに」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

聖書では、人をさばくことを禁じていることが言われています。この世の価値観から言えば、人をさばくことが悪いなんていう感覚はあまり無いかもしれませんが、しかし聖書において人をさばくことは固く禁じております。その理由が2節にあります。さばくとおりにさばかれてしまうからです。また、ルカの福音書ではこのように言われています。

 

参照 ルカの福音書6:37

6:37 さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。

 

ここでも、「さばいてはいけません」とあります。そして私たちが人をさばくことをしないなら、さばかれることはありませんよ~、ということが言われています。そのあとに、「人を罪に定めてはいけません」ともあります。そうするなら、罪に定められませんよ~、と言われています。裏返すなら、何らか人を罪に定めてしまうときに、私たちも罪に定められてしまう可能性があります。さらに「赦しなさい」とも言われています。赦すなら、赦してもらえますよ~、とあります。反対に人をどこまでも赦さない、というときに自分たちも赦されない可能性があります。

 

そう、もし私たちが神さまにさばかれてしまったり、罪に定められてしまったり、赦されなかったりした場合にどうなるのか?と言うと、死後、入れると思っていた天の御国に入れなくなってしまう可能性がある、ということを冒頭のみことばやルカの福音書を通して言われているのです。そして人をさばくこと、罪に定めること、赦さないことはどうもワンセットのようですので、これらのことにはことさらに注意を払いたいと思います。せっかくですので、また、大事なポイントのようですので、人をさばくとどうなってしまうのか?についてもう少し見たいと思います。

 

参照 ローマ人への手紙2:14

2:1 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。

2:2 私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。

2:3 そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。

2:4 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。

 

順に見ていきたいと思います。

 

2:1 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。

 

私たちが人をさばく、というときに、弁解の余地が無くなってしまう、ということを言われています。さらに他人をさばくことによって、罪に定められてしまうと言われています。さらにさらに、さばくあなたがその人と同じことを行なっているからです、とあります。自分たちの視点はともかく、どうも神さまから見ると、何らか人をさばくというときに、じつはその人と同じことを行なっているという風に判断されてしまうようです。

 

2:2 私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。

 

ここで、そのようなことを行なっている人々に対して、神さまのさばきが下される、ということを言われています。つまり私たちがあえてさばかなくても、きちんと神さまがさばきをされるので何も心配する必要は無いよ、ということを言われているのです。ですから先走って、相手の人のことをさばくのはNGなのです。もし、そんなことをしてしまうときに、3節のみことばが成就してしまいますのでお心当たりがありましたら気を付けていきましょう。

 

2:3 そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。

 

1節でも話をしましたように、人をさばくときに自分も同じことをしているのですよ、ということが重ねて言われています。そうすると、「あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか」とありますように、その人自身も神のさばきの対象となってしまうので気を付けていきたいと思います。なぜ、そこまでさばいてはダメだということについて強調されているのでしょう?それに関して、Ⅱコリント人への手紙にはこのように書かれています。

 

参照 Ⅱコリント人への手紙2:10,11

2:10 もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。

2:11 これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

 

この箇所で言わんとしていることは、人に対して色々と不満に思うことがあったとしても、場合によっては理不尽な目に会わされたとしても、けれどもいつまでもそのことに固執したり、さばいたりしてはいけない、ということです。それに対して赦しなさい!ということを言われているのです。どんなに相手の人が悪かったとしても、です。そのことにあまりにも執着してしまうなら、サタンに欺かれてしまうのです。つまり同じ罪に入ってしまうので、気を付けなさい!ということ言われているのです。この箇所においても、人を赦しなさい、つまり人をさばくのはやめましょう!ということをお勧めしています。そうでないと、あわや同じ罪に入ってしまうのですよ!ということを言っているのでは?と思います。また、別の箇所には「互いに訴え合うことが敗北です」とか「不正を甘んじていなさい」とか「むしろだまされていなさい」ということも言われていますので、ぜひそのことを実践していきたいと思います。

 

ローマ人への手紙のさいごを見ましょう。

 

2:4 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。

 

ここには今までの結論が書かれています。なぜ、人をさばいてはいけないのか?の理由について述べられています。今は罪がある、あの罪、この罪と・・・場合によっては傍から見たらとんでもないと思えるようなこともあるかもしれません。しかし、「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」とありますように、神さまには人々をそれらの罪から解放する力があるのです。ハレルヤ!です。ゆえに誰かの罪に気付いたとしても、さばいたらダメなのです。そのことを赦し、その人が悔い改められるように憐れみをもってとりなしていくことをおすすめしているのです。もしそのことを実践していくのなら、神さまの前に非常に喜ばれることですし、のちにおいて誉れを受けるようになるでしょう。ですからもし、何らか人をさばきそうになった場合、このことを実践することをおすすめいたします。

 

今回の要点は、いかなる理由があっても、人をさばいてはダメだ、ということです。この世において、「あの人が悪い。この人が悪い。あの部分が、この部分が・・・」などと批判するのはごく常識のことかもしれませんが、聖書では真逆のことが言われていますので、もし誰かをさばいていましたら、そのことは直ちに悔い改めていきたいと思います。人間の習性として、あらゆることにおいて自分を基準に物事を考えやすいので何か少しでも相違があると、自分が正しいと言わんばかりについつい相手の人のことをさばいてしまうかもしれませんが、そうすると、逆に自分がさばかれたり、罪に定められたりしてしまうので気を付けていきたいと思います。どんなに相手が悪くても、まずはその人を赦し、とりなしていきたいと思います。よろければこういうこともご理解いただけると幸いです。

 

ずっと前に本で読んだのですが、ある牧師さんの話です。その当時、ボーナスの出る季節だったそうですが、その時にひとりの姉妹が「今回のボーナスはいつもより少ないわ!」と不満をポロッともらしたそうです。それを聞いた牧師さんは心の中で、「あなたはわがままなお嬢さんですね。神さまへの感謝の気持ちがありませんね」と思ったそうです。でも、そのあとに、「しかし私はあなたにそのことをあえて指摘しません。そうすることによって私が人をさばく罪に定められてしまうからです。」ということを書かれていました。そのことを読んで、「ああ、なるほどー。」と思いました。たしかにこの牧師さんがその姉妹に対して思われたことはもっともなことなのであります。まして教師の立場なので信徒の罪や誤りについて指摘しても良い立場であります。しかしあえてそのようなことはせずに、神さまに委ねたことは、見習うべき態度だなぁと思いました。そして今回の箇所を通して、本当に人をさばいてはいけないんだなぁということを改めて学ばされたように思います。このことを少しずつでも実践できたら幸いに思います。いつも大事なポイントについて語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。