聖書箇所 マタイの福音書8:1417

 

8:14 それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。

8:15 イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。

8:16 夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。

8:17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

 

「霊的に倒れてしまっても」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

この章全体は、病気からの解放や癒しや悪霊の追い出しについて書かれています。そして14,15節では、「熱病」について取り上げられています。ペテロのしゅうとめ、つまり彼の奥さんのお母さんが「熱病」にかかったために床に着いており、それをイエスさまがご覧になって癒された、ということについて述べられています。また、16節では、悪霊につかれた人たちの癒しに関して書かれています。「みなお直しになった」とありますように、さすがイエスさま!病気という病気をすべて癒してくださる偉大なお方だ!全能者の癒しのみわざは素晴らしい!と、思わず手を叩きたくなりますよね?私も全く同感であります。それはそれですごいことなのではありますが、しかしですね、聖書のみことばには所々たとえが使われていたり、御国の奥義が隠されていたりするのでありまして、今回の箇所においてもそういったことを主が語っているように思えましたので、そのことについても話したいと思います。

 

じつはペテロのしゅうとめの「熱病」の癒しと、16節に書かれている「悪霊の追い出し」とは関連性があるのですが、「熱病」とはどんなことを言われているのか?を、他の箇所から参照してみたいと思います。

 

参照 申命記28:22

28:22 主は、肺病と熱病と高熱病と悪性熱病と、水枯れと、立ち枯れと、黒穂病とで、あなたを打たれる。これらのものは、あなたが滅びうせるまで、あなたを追いかける。

 

「熱病」ということばがいくつか使われています。しかも「悪性熱病」ともあります。そしてこれらの熱病で打たれたままだとどうなるのか?と言うと、「滅びうせる」とありますように、滅んでしまうのです。これは実際の肉体の死のことも言われているかもしれませんが、霊的に死んでしまう、ということをも言われていると思います。つまり「熱病」とは、霊的な事柄を言われており、また、良い意味合いではなく「悪性」ともありますように、悪い霊と関連することが理解できます。そしてまさに冒頭の16節の「悪霊」のことばが、それと同じことを言われていると思います。ですから「熱病」と「悪霊」とは大いに関係があり、すなわち「熱病で床に着く」とは、悪い霊に倒されてしまっている状態のことを言っていると思います。また、ペテロのしゅうとめは恐らくクリスチャンだと思います。なぜかと言うと、「ペテロの家」と書かれていて、「家」は「教会」のたとえでもあるからです。このことからクリスチャンになったからといって、いつも霊的に健康だとはかぎらず、時として霊的な病気にかかってしまうことがお分かりになりますよね?場合によっては、悪い霊に倒されてしまうことすらあるのです。要因は罪をはじめ、様々あると思いますが、けれども倒れてしまったからといって、「もう、おしまいだ~」とばかりに失望する必要はないのです。それに関して、17節のことが言われています。

 

8:17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

 

「彼」とは、イエスさまのことですが、ここで主が私たちのわずらいや病気を引き受けてくださったり、背負ってくださったことを言われています。このことばはそれ以前の節の「癒し」のことばにかかっています。また、イザヤが言われたことだとありますので、その箇所も見てみましょう。

 

参照 イザヤ書53:112

53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。

53:2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。

53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

 

少し長いのですが、この箇所をザックリ言ってしまうと、イエス・キリストの受難、すなわち十字架の刑について語られています。そしてそれは12節にありますように、キリストが十字架にかかってくださったひとつの理由は、12節「多くの人の罪」を負うためであったのです。分かりやすく言うなら、私たちのあの罪、この罪と、ありとあらゆる罪から解放するために、もっと言うなら、霊的な病を癒すために主は死んでくださったのです。さらにそれだけではなく、復活されました。復活に関して、たしかに「ああ、イエスさまが生き返って良かった」とそれも一面そうなのですが、イエスさまの復活は単にイエスさま一個人のことのみで終わるのではなく、私たちが罪から解放されたのちに復活の力(聖霊の力)によって生きていくための型でもあるのです。そして冒頭のみことばの「イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした」とは、まさしくそのことを語っているのです。彼女、すなわちペテロのしゅうとめは熱病(悪い霊)によって倒れていました。けれども「熱がひき」とありますように、イエスさまに力によって、霊的な病から解放していただきました。そしてそれだけではなくその後、イエスをもてなすことができました。少し細かい話で恐縮ではありますが、「もてなす」のところはKJV訳では「奉仕する」とあります。そうなんです。私たちがもし、悪い霊に倒されているときというのは、歩みすらままならないので奉仕をするどころではないのですが、しかしイエスさまによって悪い霊から解放されて、さらに復活の力、すなわち聖霊の力を受けていくときに、主への奉仕もさせていただくことができるのです。これって、すばらしいですよね??霊的に倒れてしまうと、「もう先が真っ暗・・・」と落ち込んでしまうことが多々あるかと思うのですが、聖書ではそんなことは語ってはいないのです。そう、神さまは私たちが罪を犯したりして霊的に病んでしまうことを前もってご存知で、そしてそこから何とか解放するために御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださり、十字架上で贖いをしてくださったのです。このことを決して忘れることのないようにしましょう。

 

ですから私たちはたとえ罪を犯してしまったりして霊的に病んでしまっても、そのまま放置することなく、イエスさまのところにすぐに行きたいと思います。そうするなら、ペテロのしゅうとめや悪霊につかれた人々のように癒していただけるのです。また、それのみではなく、復活の力によって歩ませていただき、奉仕もさせていただけるのです。人間的には何の失敗もせずに、罪を犯さないほうが良い、と思うかもしれません。もちろんそれに越したことはありませんが、私たちはアダム以来の原罪を持っているので、つまり元々不完全でありますので大なり小なり罪を犯してしまう、というのが聖書で言われている一面の真理ですので、万が一にも失敗したり罪を犯してしまって霊的に倒されてしまった場合には、すぐにイエスさまの元に行って、癒しや解放を求めていきたいと思います。それこそ、「みなお直しになった」とありますように、霊的な病においてイエスさまが癒せないものは皆無なので、ぜひ積極的に求めていきたいと思います。イエスさまは私たちをいつでも罪から解放したいと思われていますので、よろしければ実践していきましょう!

 

また、失敗や罪にかぎらず、元々の性質に関しても、「ここは直したい」なんていうものも、イエスさまの所に持っていくならすぐに対応してくださいますので、よろしければ実践してみてください。反対に、悪い霊に倒されているにもかかわらず、心を頑なにしてしまってイエスさまの元に行かないという場合に、いつになっても罪や霊的な病から解放してもらえませんので、そうすると、悪い霊に倒されたきりになってしまい、そしてそのままの状態で生涯を終えてしまうというときに、神さまからの怒りを買ってしまったり、はたまた入るべき天の御国が危なくなってしまう可能性がありますので気を付けていきたいと思います。よろしければこのようなこともご理解いただけると幸いです。

 

今回の聖書箇所と関連するかどうかは分かりませんが・・・かつて弟子訓練の集会の時に、レビ記からのおすすめを通して、異火を捧げたために霊的に死んでしまったアロンのふたりの息子についての学びから教訓を受けました。その時に「霊的におかしい場合には、奉仕をしないことをおすすめします。特にメッセージや証や預言は要注意です。」ということをエレミヤ牧師が語っていました。それまでの私は、とりあえずは奉仕を捧げていけば良いと思っていました。けれどもおすすめを通して、霊的な事柄がいかに大事であるかを理解しました。また、最近ヤコブの手紙を通して、「正しく教えを語ることは大事なのですが、しかし奉仕者を通して霊が下されるので、霊的なことにはくれぐれも気を付けてください」ということも言われていましたので、霊的なことは本当に重要なんだなぁということを再度認識させられました。こんな風に、私もおよばずながら若干なりとも霊的な奉仕に携わっていますので、悪い霊にやられているとか倒されているという時には、すぐにイエスさまの所に行きたいと思います。今回も大事なポイントについて語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。