聖書箇所 マタイの福音書9:9

 

9:9 イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。

 

「イエスの名によって立ち上がる」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

この節だけを読むと、イエスさまが収税所に座っているマタイについてくるように声を掛けられて、そして彼が従っていったということが理解できます。もちろんそれはすばらしいことだと思います。それまではそうではなかったのに、これからはイエスさまに従うわけなのですから。たしかにこのみことばはそういう面も語っていると思います。しかし今回は後半の「彼は立ち上がって」「立ち上がる」ということばから、神さまが私たちに語っていることについて話をしていきたいと思います。細かい話で恐縮なのですが、「立ち上がる」のところは英語だと、「立つ」の他に「起きる」という風にも訳されています。

この同じ原語はマタイ17:9「死人がよみがえる」箇所で、使われています。ですので、

意味していることは、マタイが罪や死から、生きてしたがっていったとも理解できます。

 

 

 

 

また、この節は9章のそれ以前のことばと多少なりともつながりがあるのでは?と思います。よろしければ少し前のほうを見てみましょう。

 

参照 マタイの福音書9:17

9:1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。

9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。

9:3 すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。

9:4 イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。

9:5 『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。

9:6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。

9:7 すると、彼は起きて家に帰った。

 

5‐7節の中で、「起きる」ということばが3回出てきます。

この原語はマタイ9:25「少女が死からよみがえる」時に使われています。ですので、

このことばも、罪、死から起きてくることと関係するのです。

これらは先ほどの「立ち上がる」(英語:立つ、起きる)とほぼ同じニュアンスで使われているのでは?と思います。さて、この「起きる」とか「立ち上がる」ということばですが、何かと関係があるようですが、いったい何と関係があると思いますか?そのヒントが上記の2,,6節にあります。もうお分かりだと思いますが、「罪」と関係があるのです。「罪から起きる」「罪から立ち上がる」ということです。言わんとしているのは、「罪からの解放」ということであります。クリスチャンにとってはあまりにも当たり前のことなので「今さら何を?」と思われる方もおられるかもしれません。でも、このことは結構大事なことだと思いますのでさらに話していきたいと思います。

 

むろん皆さまは、イエスさまはどのような罪も私たちを自由にする力をお持ちの方であることはご存知でしょうし、信じていらっしゃると思います。けれどもそのことを本当に適用するかどうか?ということは、また、別のことではないかと思うのです。何を言っているのか?と言うと、私も含めて皆知識としてはそういうことを知っているのではありますが、罪があった場合に、「何が何でも、この罪から解放されていかなければいけない!イエスさまの力によって必ず解放されていくぞ~!」と決意して求めていく人ばかりとはかぎらないのでは?ということです。そんなことはない!とおっしゃる方はともかく、私個人は十分思い当たることがあります。これが罪だと分かっていても、真の解放をなかなか求めないなんていうことが多々ありましたし、そういった部分は今でも多少なりともあると思います。

 

けれども聖書においてイエスさまはそれに対して何と言われているか?と言うと、「起きよ!」と言っているのです。つまり、「罪から離れよ!」と言っているのです。もちろん実際に起きなければいけないのはイエスさまではなく、罪を犯している私たちなのではありますが、要は「罪から離れることを決意しなさい!」ということを言われているのではないかと思います。罪があった場合に、その罪ときちんと決別する意思があるのかどうかが、問われているのです。罪があって、しかし、もし本当に決意するのなら、イエスさまは罪を赦してくださり、しかも解放までしてくださるのです。そう、罪に束縛されることなく、罪から自由になれるのです。それは実際の行動の面もあるかもしれませんが、しかし霊的な側面のことをも言われているように思います。はたまた解放されたのちには、マタイのようにイエスさまから声をかけていただき、主の弟子としての歩みもさせていただけるのです。裏返すなら、私たちがあの罪、この罪と、あらゆる罪に縛られている場合に、残念ながらイエスさまの弟子となるのは難しいようです。ですので、もし、イエスさまの弟子として歩んでいくことを目指していたり、あるいはすでにそのような歩みに入られているのでしたら、罪との決別においてはまじめに取り組んでいきたいと思います。

 

今回の箇所を通して、本当に罪から解放されていく気持ちがあるのかないのか?ということを、「起きる」とか「立ち上がる」ということばを通して語っているのではないだろうか?と私には思われるのです。そして大事なことは、もし罪があった場合にそこから出て行かないかぎり・・・要はいつまでも解放されていかないというときに、歩みが後退してしまうかどうかはともかく、ただ少なくともそれ以上先に進むことはできないので、ゆえに罪があるなら早いところ自由になって、「私(イエスさま)に仕えていきなさい!」というのが、ここでのメッセージではないかと思います。

 

今回のポイントをまとめます。人間的には罪を犯さなかったり、罪が無いことに越したことはないかもしれませんが、ソロモンが「罪を犯さない人はひとりもいないのですから」と言われているように、大なり小なり、私たちは罪の中に入ってしまう存在だという一面は正しくとらえておきたいと思います。だからと言って、それでお終いなのではなく、イエスさまの力によって罪から自由になれるのも一面の真理なので、このことも見ていきたいと思います。そして罪を犯してしまったり、罪がある、という場合には正しく対応していきたいと思います。人によっては、「ああ、こんなに罪を犯してしまったからもうダメだ~」と、落ち込んでしまうこともあるでしょう。それこそ今回登場した中風を患った人や収税人マタイは、パリサイ人や律法学者たちから見れば、「罪人」だという風に太鼓判を押されていましたが、しかしイエスの名によって、もっと言えばイエスさまの復活の力によって自らの意志で立ち上がって罪から解放されたパターンですので、私たちもぜひ、そのことに倣っていきたいと思います。反対に律法学者やパリサイ人のように、「自分は何でも正しい。完璧だ。罪なんて何も無い!」なんて思い上がっていくときに、天の御国は危ないものとなりますので気を付けていきたいと思います。

 

そしてまた、サタンは私たちが犯した罪に対して、「あ~あ、そんな罪を犯してダメだねぇ。それは絶対に神さまでも赦すことはできない」とか「求めても無駄だよー。ずっとそのままでもいいんじゃない?」なんていうことを時としてささやいてくるかもしれませんが、そんな声に決して乗せられることなく、「これは何が何でも解放されていかなければ!」と思う罪がありましたら、即座にイエスさまに求めていきたいと思います。イエスさまはどんな罪であれ赦す権威を持っており、また、私たちを罪から立ち返らせる力がありますので、積極的に解放を求めていきたいと思います。もし、罪に縛られていましたら、ぜひそこから立ち上がって、神さまに仕えていくことに目を向けていきたいと思います。

 

今年の2月の礼拝のメッセージの中で、「肉体の弱さ」への対応についてエレミヤ牧師が語られていました。私個人は、「肉体の弱さ」=「罪」ということを思い浮かべたのですが・・・その時に、「弱さ」に関して、それは「祈り」によって対応が可能なので、そういう意味合いでは弁解はききません、ということを言われていました。「祈り」の中で、「肉体の弱さ」はカバーできますよ~、ということでした。

 

そしてこれはもしかすると、今回の聖書箇所と多少なりともオーバーラップするのでは?と思いました。それこそ6節でイエスさまが「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために」とおっしゃっているので、もし歩みの妨げとなるような弱さ、すなわち罪に関しては、まじめに対応していかなければいけないかなぁと思いました。いつも大切なポイントを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。