聖書箇所 マルコ5:35-37

 

5:35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」

5:36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。

5:37 そして、ペテロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。

 

ここでは、会堂管理者の子供を助けるために、イエス様はその人の家に向かうことになりました。そして、その時に、主一人ではなく、弟子たちを同行させました。でも、弟子全員に声をかけたわけではなく、ここに書かれているようにペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて行きました。主の弟子になった人は12弟子以外にもいましたし、少なくとも、12弟子はいつもイエス様のそばにいました。けれどもその中でも3人だけが選ばれました。ここで神様が私たちに何かを語ってくださっていると思います。

 

ちなみにクリスチャンといっても、2通りの歩み方があります。群集として歩むか、弟子として歩みかです。そして、弟子としての歩みも2種類あって、最後まで主に従う弟子、あるいは、何かをきっかけにイエス様から離れ去ったり、イスカリオテのユダのように裏切る弟子がいます

 

更に主に従う弟子の中にも区分があることが理解できます。37節に書かれているように、主から声をかけられるかどうかです。分かりやすく言うと、主に働きを任されるかどうかです。このことに類似した箇所がいくつかあります。イエス様がモーセとエリヤと話をしていた時や、十字架にかかる前にゲッセマネで祈っていた時に一緒にいたのも、全員の弟子ではなく、ペテロとヤコブとヨハネの3人でした。

 

なぜ、この三人が選ばれたのか、その理由について、聖書は細かく説明はしていません。でも、何らかの理由があって、この三人が選ばれたのは確かです。そうでなければ、ピリポやトマスやアンデレの誰でも良かったのだと思います。ただ、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダも選ばれていなかったことも事実です。しかも、ユダがご自分を裏切ることをイエス様は初めからご存知でした。そのことから類推して、神様は、その人の常日頃の歩みを御覧になっていることが理解出来ます。ゆえに弟子と言っても建前だけではなく、真に主に従う人もご存知で、そのように歩んでいる人に神様の働きを任せる、恐らくそのようなことを言われているのではないだろうかと思います。

 

具体的に神様の働きを任される人とはどのような歩みをしているのかについて触れていきたいと思います。今、土曜日の弟子の歩みで、レビ記や民数記から、祭司のことについて学んでいます。旧約では、弟子のことをレビ人とか、レビとか言っています。レビとは、くっつくとか結びつけられるとか、忠実という意味です。つまり、いつも、主から離れずに、主に仕えている人のことです。具体的には、祈り、御言葉に触れ、主に言われたことに異を唱えずに素直に従う人です。単に、弟子の歩みの集会や礼拝に出席して、その時だけ、奉仕を行うのではなくいつでも、神様の言われることに応答していく人、常に心を主に向けている人そのような人が神様の働きを担っていきます。弟子としての歩みをしていても、この世についていたり、一時的な思いや気まぐれな歩みをしている人は残念ながら、主に用いられるのは難しいと思います。

 

また、最近、土曜日の弟子の学びの時に、エレミヤ牧師を通して民数記から数を数えることについて教えていただいきました。そのおすすめの中で、数のうちに入ることが重要であること、戦いに耐えることが出来る人がカウントされることを理解しました。何を言っているのかというと、神様のために戦う意志のある人、更に分かりやすく言うと、神様の義を熱心に追い求め、御心を行う人、そのような人に、神様は目をとめられています。

 

繰り返しますが、主に用いられていくことがポイントです。弟子として歩むこと、祈り、御言葉に触れ、必要な訓練を行う、このことは、とても尊いことです。ただし、これさえやっていればいいわと言って、それ以外の時には、キリストから離れ、この世の知識や暮らしの向きとかを追求し、世についた生活を送ることに御心はありません。つまり弟子として歩むというのは、生活全般が問われることをご理解いただきたいと思います。極端な言い方をすると、瞬時においても、主に心が向けられているかどうかということです。いつでも、神様に介入していただけるような歩みをしていくことがポイントです。話を、初めに戻すと、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人は、恐らく、必要な訓練にプラスしてすべてのものを主に捧げていたのではないかと思います。どんな時にも主の御声に応答する、そのような歩みが身についていたのだと思います。そして、そのことを主は、とても尊んでおられて、この時も声をかけられたのだと思います。第二コリントにこのような御言葉があります。「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神様は喜んで与える人を愛してくださいます。」

 

喜んで捧げること、このことも、大切なことです。とは、言っても、時や場合や事情によっては、従えることと、そうでないことがあるかと思います。神様もそのことは、よくご存知です。でも、たとえ、すぐに従うことができないことも、祈り求めていくことによって聖霊の力によって、少しずつ従っていかれるように変えられていきます。そのことは、自分にとって益になるだけではなく、周囲にいる人を強めたり、励ましたり、助けたりする働きにもつながり、ある意味、群れの模範となっていきます。周りの人に良い影響を与えるので、そのことをきっかけに、歩みを正したり、真に主に従う人たちが結果としておこされていくことにもなります。ぜひ、心から、喜んで主に捧げて、主の御声に素直に応答し、主に用いられる弟子として建て上げられていきたいと思います。

 

弟子の歩みをして、時として自分の感情との戦いであることを感じることがあります。神様のことよりも、ついつい自分の思いや考えを優先してしまい、釈然としない思いになることがあります。そんな時に、イエス様が「わたしについて来なさい」と、ペテロやヤコブやヨハネに声をかけられたこと、そして、彼らがすぐに従ったことを思い出すようにしています。従うこと、とにかく従うことなのだなぁと自分自身に言い聞かせながら、祈りや御言葉の読み込みや訓練や働きに励むようにしています。また、上記の第二コリントの御言葉を通して、喜んで主に仕えていくことの大切さについて、最近、教えられています。主が言われることに関して、基本的には、すべて従ったほうがよいのですが、喜んで従うことが祝福や勝利につながるのではないのかなぁと思いました。及ばずながらも、これからも、主の助けや導きの中で、訓練し、主に用いられる弟子として建て上げられていきたいと思います。また、艱難時代の中で、試練や困難が押し寄せて来ても、最後まで主を信頼して、歩んでいかれたらなぁと思います。