聖書箇所 マルコ12:42-44

 

12:42 そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。

12:43 すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。

12:44 みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」

 

上記御言葉の「やもめ」という言葉を通して、主が語っている信仰の歩みについてみてみたいと思います。

 

クリスチャンの歩みに関して、やもめの歩みに御心があります。

やもめの意味は、辞書をひくと、「夫のいない女。また、夫を失った女。未亡人。」と、書かれています。

 

また、「貧しい」という言葉にも語りかけがあります。

このことは、単に、所持金が少ないことを言っているだけではありません。

私たちの内面的なことについても言われています。

聖書の御言葉には、「貧しい」という言葉が度々出てきます。

先ほど申し上げたように、金銭のことを指す場合もありますが、聖書で言われている大半の意味合いは、謙遜な心とかへりくだった心のことを言われています。

 

聖書の中で、キリストは花婿で、クリスチャンは花嫁にたとえられています。

つまり、聖書で言われている「やもめ歩み」というのは、霊の夫であるキリストを待つ人、たとえ、人間的には結婚をしている場合でも、地上にあっては、寄留者であり旅人であることを念頭に置いて信仰の歩みをしている人です。

口先だけではなく、真の意味合いで、キリストだけを主として歩む人のことを「やもめの歩み」と言います。

 

そのようなことを踏まえて、主が語っていることに耳を傾けていきたいと思います。

 

クリスチャンといっても、歩み方は人それぞれであって、どのような歩みをしたかによって、結果も異なります。

この箇所を通して、神様が私たちクリスチャンに求めておられる信仰の姿勢について学んでいきたいと思います。

 

ここでは、一人の貧しいやもめが献金箱にお金を入れている様子について書かれています。

さっきも言いましたように、「やもめ」という言葉に1つのキーワードがあります。

私たちがクリスチャンとして、歩みをしていく時に、知っておかなければならないことがあります。

クリスチャンというのは、キリストの奴隷です。

キリストから贖われ、キリストのものとなったわけです。

神様を信じる前は、空中の権威者であるサタンを父としていたので、この世のものでした。

しかし、キリストを信じて心に受け入れて、クリスチャンとしての歩みをスタートさせることによって、この世のものではなくりました。

 

ここで少し考えていただきたいのです。

建前では、確かにそうなのです。

また、多くのクリスチャンは、頭では、このことを理解しているのです。

クリスチャンになると、大半の人は、礼拝に行ったり、奉仕をしたり、時にはトラクトを配ったり、路傍で伝道をしたりするのかも知れません。

ところが、聖書ではこのような御言葉があります。

以下は、ピリピ人の手紙からの引用です。

 

3:17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。

3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。

3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

 

19節の「彼らの思いは地上のことだけです」の言葉に着目していただきたいと思います。

この言葉は、神様を知らない未信者の人たちに語られているのではありません。

17節の「兄弟たち」とあるように、パウロは、同胞であるクリスチャンに対して言われているのです。

18節の「多くの人々がキリストの十字架を敵として歩んでいる」と言うのは、クリスチャンと称しながらも、心の思いが天にあるのではなく、地上のことにとらわれている人が多いということです。

私たちは、神様とも、この世とも、うまくやっていきたい、誰しもがそのように思うかと思います。

 

恥ずかしい話ですが、かつての私もそのように考えていました。

この世のことも保障されたい、特に、人間関係に関しては、誰とでもうまくやっていけたらいいとか、経済も乏しいよりかは豊かなほうがいい、そして、神様にも仕えたい等と、自分に都合の良いことばかり考えていました。

でも、聖書を読むと、「二人の主人に兼ね仕えることは出来ない」とか、「神にも仕え、富にも仕えることはできません」とか、「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」と、はっきりと書かれていることに気づかせていただきました。

こういったことから、この世のことと、神様のことを、両立させるのは、不可能であるということを理解しました。

 

以前の私もそうであったように、このことを正しく認識しているクリスチャンは、非常に少ないのではないでしょうか。

また、この世のこと=肉の思い、神様のこと=御霊の思いであって、この二つというのは、常に対立しています。

残念なことに、何の接点も無いのです。

信仰生活を送っていく上で、このことは正しく御理解いきたいと思います。

なぜかというと、私たちは、どちらか一方にしか仕えることは出来ませんし、選んだ結果によって、死後の行き先が変わってくるからです。

 

44節の「やもめは全部投げ入れました」のところからも、語りかけを感じます。

このやもめから、本来の信仰のあるべき姿をとらえることができるかと思います。

はじめに話しましたように、真のやもめというのは、この地上において夫を持たない人、天の夫であるキリストを待つ人です。

このやもめは、地上に目を向けた歩みではなく、主に望みを置いた歩みをしていたので、すべてを捧げることができたのではないかと思います。

このことは、単に金銭的なことのみを言われているのではなく、霊的なことも言われているのだと思います。

私たちが献身の道を歩む時の一番のポイントは、神様の御声に聞き従うかどうかです。

つまり、心の思いや考えをすべてキリストに与えていくかどうかです。

このことは、瞬時においても、問われていくことです。

御言葉に「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」と、あるように、主は、私たちの心の居所について、常に見ておられます。

そして、私たちが内面的な部分を、主に捧げていくときに、神様は、私たちを主の尊い器として用いてくださいます。

 

私たちが、神様にお仕えしていく姿勢について、絶えず吟味していくことはとても大切なことです。

これから背教が起こり、反キリストが立っていくことによって、私たちの信仰の真価が試されるからです。

そして、恐ろしいことに、地についたクリスチャンは、主の御顔から永遠に退けられてしまうということが聖書には書かれています。

本日学んだやもめの歩みに見習っていきたいと思います。

主の前にへりくだり、主ご自身だけを見上げ、主に心を捧げていく歩みをしていきたいと思います。