聖書箇所 マルコ14:3-8

 

14:3 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。

14:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。

14:5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。

14:6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。

14:7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。

14:8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。

 

ここでは、一人の女性がイエス様に対して行ったことについて書かれています。

主が、この箇所を通して、私たちに語っていることを見ていきたいと思います。

 

女性がイエス様にしたこと、このことは、周囲の人たちから見ると、非常識なことだと判断されました。

3節に、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼと書かれていて、売ったら、食べることや物質的に困っている人たちの助けが出来るのにと、周囲にいた人たちは、彼女に向かって憤りを発しました。

確かに、このことは、人間的に考えて、おかしくも何ともない、むしろ、正当なことのように思われます。

 

しかし、6節でのイエス様の対応を見る限りでは、この女性が行ったことは、むしろ、賞賛に値するものであることが理解出来ます。

4節の、憤慨に対して、全く、正反対の反応です。

「わたしのために、りっぱなことをしてくれた」と、イエス様は、女性を非難する人々に言われました。

このところに、語りかけを感じます。

 

わたしのため、つまり、イエス様のためにすること、このことは、とても大切なことだと言われているのではないでしょうか。

 

私たちは時折、信仰のことを勘違いしてしまうことがあるのではないでしょうか。

頭では、きちんと理解して、口では、神様に仕えていると言っていても、いつの間にか、人のためや自分のためにと、すりかわってしまっていることがあるように思います。

神様を基準に行っていると言いながら、心の思いや、人間的な考えに固執して、歩んでいることが往々にしてあるのではないかと思います。

自分では意識をしなくても、いつの間にか、人間的なとらえで、神様の働きを進めていることはないでしょうか。

そして、そのようなことは、神様の働きを妨げたりとどめてしまったりするようにも思います。

 

人間的な考え、このことは、一見良いことのように思えます。

しかし、実際に聖書では、人の言い伝えは、神のことばを無にするとさえ言われています。

このことは、イエス様御自身がおっしゃっていることです。

 

つぼを割って、イエス様の頭に油を注いだ女性、彼女を通して学ばされることがあります。

この女性は、イエス様が望んでおられることが何であるかということをご存知でした。

どうしたら、イエス様のお役に立てるか、喜んでいただけるかを、常に追求されていたのだと思います。

 

そして、実際に、この時にも、イエス様が求めておられことを女性は知っていました。

しかも、それを、いつ、行うべきなのか、時期についても、きちんと把握していました。

 

なぜ、女性がそのようにすることができたのでしょうか。

きっと、常に、イエス様のことを思い、ひたすら、イエス様にくっついていたからなのだと思います。

どこまでも、イエス様を愛し、イエス様がどのようにしたら喜んで下さるか、いつも、そのことに着眼していたのだと思います。

そして、このことは、主の目から見て、とても尊いことでした。

 

また、女性が主から誉められた大きな理由は、何よりも、主の御心を優先し、そのために、どこまでもエネルギーを惜しまなかったことです。

香油とは、芳しい香りの油のことです。

ちなみに、香とは、たとえの意味合いとして、祈りのことに通じます。

油は、御霊の油、つまり、聖霊のことを指します。

芳しい香りとは、聖霊の油注がれた祈りに通じるかと思います。

つまり、主の御心に叶う祈りを日ごろから、捧げていたということではないでしょうか。

主に喜ばれることが、何であるかを逐一、尋ね求めていたのではないかと思います。

 

このことは、決して、人の目に見えるわけでもなく、理解されるものでもありません。

祈りや信仰というのは、どこまでも、神様とその人との、一対一の関係だからです。

8節にもあるように、自分にできることをしたと主が言われている通り、主は、その人のすべてのことをご存知で、それぞれの人を、ご自身のご計画や御心のために、用いられます。

つまり、第三者が、その人の霊的なことや、信仰のことに、介入する余地はないということです。

 

また、人の思いや考えを基準にしてしまうと、どこかでズレが生じたり、行き詰まったりします。

箴言の御言葉に、「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」と、あります。

どんなに人に認められようと、良く思われようと、神様の御心ではないことは、罪だということです。

この女性のように、神様に喜ばれることを、直接神様に尋ね、行っていくことは、とても大切なことだと思います。

このことは、神様に従っていく歩みに直接通じていくのではないかと思います。

日々、祈り、御言葉に触れて、主の御心を正しく理解して、神様に喜ばれることを行い、人からではなく、主からの誉れを受けるような歩みをしていきたいと思います。

 

この箇所を通して、聖書が言われていることと、人間の思いや考えのギャップについて教えられました。

人間の固定観念や常識に縛られている時点で、神様の働きをとどめてしまったり、栄光を見ることができなくなってしまうのではないかという危険性も感じました。

また、自分自身が、目に見えるものに弱く、なかなかストレートに神様を見上げていない弱さについても気づかされました。

もし、自分がシモンの家にいたら、4節に書かれているように、人間の常識によって、人を判断していたに違いないと思います。

祈り、御言葉、メッセージを通して、神様の基準について学び、聖霊の助けによって霊の目で判断し、御心を行っていかれるようにしたいと思います。