聖書箇所 マルコの福音書11:1214

 

11:12 翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。

11:13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。

11:14 イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。

 

「実の生らないいちじくの木」というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。

 

12節に、「イエスは空腹を覚えられた。」と書かれていますように、ここでイエスさまはどうもお腹がすいていたようです。そんな中、「いちじくの木」が遠目ではありますが、イエスさまの目に入ってきました。それで、「何かないだろうか?」と見に行かれたようですが、しかし、「葉」のほかには何もありませんでした。その後、「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」と言われました。なぜ、このようなことを言われたのでしょう?それは恐らく、お腹を満たすために食べられる「実」が無かったからだと思います。

 

さて、この時、物理的にイエスさまはお腹が減って、なおかつ実際にこのようなことは起きたのだと思います。それはたしかにそうなのですが・・・けれども度々繰り返して語らせていただいていますように・・・聖書のことばは、ケースバイケースによっては、おもての意味合いだけではなく、隠された裏の意味合い、すなわち秘義とか奥義と言われる類に関しても語られています。そのような視点で聖書を学んでいくときに、今回の箇所も、ひょっとしたらそうなのでは?と思うのですが、いかがでしょうか?食べ物が無かったから、そのことでイエスさまが不機嫌になられて、14節のような捨て台詞を言ったのか?という見方もあるかも知れませんし、勿論、私をはじめ、多くの人がこういった一面は多少なりとも持ち合わせているのかも知れませんが・・・しかし、聖書のたとえの意味合いをわずかでも紐解いていくときに、それだけではないのでは?と私には思えましたので、そのことについて示されたことをお話させていただきたいと思います。そして今回は、「いちじくの木」ということばから、神さまがこのようなことを語っているかな?という点から、たとえの意味に関しても見ながらお話させていただきたいと思います。

 

「いちじくの木」ということばについてですが・・・「木」は、以前にも語ったかも知れませんが、「クリスチャン」を指すたとえです。ですから、「いちじくの木」とは、ある種のクリスチャンの型を言われているのでは?と思います。そしてどんなタイプのクリスチャンを言われているのか?そのヒントが13節にあります。「葉の茂った」とか「葉のほかには何もない」ということばがそうなのでは?と思います。更に14節を見ると、より明確に理解出来ると思います。「だれもおまえの実を食べることのないように。」とありますが、この「実」ということばにもヒントや答えがあると思います。この「いちじくの木」には、「葉」は沢山あったようですが、しかし、「実」が無かった、ということであります。ちなみに「実」は、「御霊の実」のことを言われています。このことから、「いちじくの木」とは、「御霊の実」を結ばせていないクリスチャンのことを恐らく言われているのでは?と思うのです。そして、それは良いことなのか?と言うと、残念ながらそうではありません。「だれもおまえの実を食べることのないように。」という風にありますように、「御霊の実」を結ばせていないクリスチャン生活というのは、イエスさまの前にはNGなのであります。

 

13節の「葉のほかは何もないのに気づかれた。」のことばを注意深く見てみましょう。ここで、イエスさまは、「いちじくの木」を観察されましたことが理解出来ますよね?そしてこのことは、個々のクリスチャンの歩みをご覧になっている、ということを意味するのでは?と思います。そうです。イエスさまは私たちクリスチャンの実態というのをよくよく見ておられるわけなのですが・・・一体、イエスさまは私たちのどの部分に興味があるのでしょうか?14節で、「実を食べることのないように」ということをイエスさまがおっしゃっていますよね?つまりこの時、イエスさまは「いちじくの木」に「実」が生っているかどうか?ということをご覧になられました。同じように・・・イエスが私たちの何をご覧になるのか?と言うと、「実」があるかどうか?すなわち「御霊の実」をきちんと結ばせているかどうか?ということを見ておられるのです。そうなんです。それだけイエスさまは、「御霊の実」を結ばせることに、力を入れておられる、ということが理解出来ますよね?では、なぜ、それだけ大事なことなのでしょうか?別の箇所からそのことを見てみたいと思います。

 

参照 ヨハネの福音書15:1,2

15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

 

こちらの箇所は、比較的馴染みのある方が多いと思いますが・・・ここでも、「実」について言われております。そして、「いちじくの木」のように、「実を結ばないもの」の結末に関して述べられています。「父がそれを取り除き」ということばが、そのことを言われています。そうなんです。クリスチャン生活の中で、もし、「御霊の実」を結ばせない、というときに、天の父なる神さまに取り除かれてしまうのです。これって、天の御国に入るでしょうか?うーん。私個人としては、かなり厳しいのでは・・・と思うのですが、いかがでしょうか?その理由として、このようなことがひとつ言えるかなぁ・・・と思うのです。そのあとに、「実を結ぶもの」のことが述べられていますよね?続いて、「もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます」ということが書かれていますが、KJV訳で「刈り込み」のところは、「心を清める」と訳されています。このことから、「御霊の実」を結ぶクリスチャンは、心がどんどん清められていく、ということが分かります。しかし一方、御霊の実を結ばないクリスチャンは、神さまによって「刈り込み」すなわち「心の清め」がなされません。しかも、「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」(マタイの福音書5章8節)ということが言われていますので・・・これはつまり、心が清められていない人、というのは神さまを見ることが出来ません、ということですので・・・ずっと、そのまま状態で生涯を終えてしまう、という時に、天の御国に入るのはかなり厳しいのでは?ということが言えると思うのですが、いかがでしょうか?

 

そうなんです。少し厳しい言い方になってしまうのですが・・・クリスチャンとして歩みをしながらも、しかし、「御霊の実」を結ばせていない、というときに、天の御国はかなり危ないものとなってしまうのではないかと思います。ですから前々から話をさせていただいていますように、クリスチャンといっても、その歩みは一様ではなくて・・・今回の箇所からも理解出来ますように、御霊の実を結ぶクリスチャンと、そうではないクリスチャンとに、タイプは二分する、ということがお分かりになると思います。そしてどんな風に歩むか?つまり、御霊の実を結ばせるか?そうでないか?それによって、後の世の行き先や結末は全く異なるのでは?ということを今回の箇所において、神さまは語っておられるのでは?という風に思います。

 

かつてエレミヤ牧師が礼拝のメッセージの中で、「人々にイエスさまのことをお伝えするときに、みことばを用いて語れることに越したことは無いのですが・・・けれども、皆が皆、聞いてくれるわけではないでしょうし、そういう場が必ずしも用意されているわけではありません。神さまを知らないノンクリスチャンの場合は、特にそうだと思います。しかし、ノンクリスチャンであっても、皆さん自身を通してイエスさまのことを知ることが出来ます。たとえ、ことばで直接伝道が出来なくても、皆さんの結ばせている御霊の実によって、間接的ではあっても聖霊に触れることが出来ます。逆にこの世の神さまを知らない人、というのは、ある意味そういう方法でしか、聖霊に触れるチャンスがなかなか無いと思います。ですから、私たちが口では特にキリストのことを説明出来なくても、御霊の実を通して、イエスさまのことをお知らせすることが出来るのです。場合によっては、そういった方法によって、少しずつキリストに触れていく中で、救われる人もあらわれてくるでしょう。でも、御霊の実ではなく、肉の実ばかり結ばせていると、信じる人や救われる人はいないかも知れません。」というようなことをおっしゃっていましたが、私もそのことに同意します。

 

そうです。みことばや証が出来れば、それが良いことはたしかなのですが・・・でも、たとえばあまりよく知らない人とか、その場に居合わせた人とかに関しては、御霊の実をもって対応していくのが、もっとも効果的な伝道

なるのでは?という風に思います。ですから私たちは、イエスさまから食べることの出来ない、いわば「実の生らないいちじくの木」ではなく、「実」(御霊の実)を沢山実らせる「いちじくの木」になっていきたいと思います。すでに皆さまはご存知かも知れませんが・・・「御霊の実」とは、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ人への手紙5章22、23節)です。もし、これらのものを結ばせることに心を向けて、力を費やして、生涯にわたって全うし続けていくなら、イエスさまに食べられる「実」として扱われ、そのまま天の御国に入っていきますので・・・「もし、そうかも知れないなぁ」なんて思われましたら、ぜひ、実践していきたいと思います。今回も大事なポイントを語ってくださった神さまに感謝をお捧げします。