【聖書箇所】マルコの福音書15:2

 

15:2 ピラトはイエスに尋ねた。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスは答えて言われた。「そのとおりです。」

 

 

 

キリストは王というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。

 

 

 

この場面は、イエスさまが十字架にかかる前に捕らえられて、総督ピラトの前に連れて行かれた時のことです。その時にピラトは、「あなたはユダヤ人の王ですか。」と尋ねました。それに対して、「そのとおりです。」とイエスさまはお答えになりました。

 

 

 

そうなんです。最後は罪人扱いをされて、十字架に付けられて、命を失ったイエスさまではあるのですが・・・しかし、イエスさまは、「王」である、ということをこの箇所では語られております。

 

 

 

かつての私も、クリスチャンになる前はその一人ではありましたが・・・イエス・キリストが王である、なんていうことは、夢にも思っていませんでした。でも、聖書ではそのことをハッキリと語っていますし、イエスさま御自身が、「そのとおりです。」と肯定されていますので、イエスさまが王である、ということは紛れもない事実なんだなぁ・・・ということを少しずつ理解するようになりました。そして今回は、イエスさまが王であること、また、「王」はどういうことを行うのか?ということについて、かつてエレミヤ牧師が礼拝の中でメッセージをされていましたので、紹介させていただきたいと思います。以下、エレミヤ牧師によるメッセージです。

 

 

 

【聖書箇所】詩篇99:1

 

99:1 主は王である。国々の民は恐れおののけ。主は、ケルビムの上の御座に着いておられる。地よ、震えよ。

 

 

 

「主は王である。」のところは、KJV訳では、「主は治める。」とあります。そして、「治める」とは、「王として支配しておられる。」という意味です。また、「治める」と聞くと、単にふんぞり返っているように思えます。しかし、そうではなくて、主が「治める」というときに、こういうことが言えます。それは、正しい人には速やかに正しい報いを、そして、悪い人には速やかに「罰」を下す、とそのようなニュアンスがあります。

 

 

 

たとえば、交通違反をすると・・・赤信号で車を走行して警察の人に見つかるなら、「罰金」を命じられます。それと同じように私たちも悪いことをするときに、神さまからの「罰」が速やかに来る、ということです。

 

 

 

つまりポイントとしては・・・たとえ私たちの目には見えなくても、主が治めている、さばいている、ということは正しくとらえておきたいと思います。そしてこの世の中のことも、キリスト教会のことも、両方を治めています。すなわち全世界を主は治めている、ということです。さらに、王の一面に、「さばく」ということが言われていますので、そのことに関しても少しお話したいと思います。

 

 

 

【聖書箇所】詩篇99:4

 

99:4 王の力は、さばきを愛する。あなたは公正を堅く立てられた。あなたは、ヤコブの中で、さばきと正義を行なわれた。

 

 

 

「王の力は、さばきを愛する。」とありますように、神さま(イエスさま)は、「さばき」をされます。それはどういうものなのか?と言うと・・・その人の「歩み」に応じて、「良い報い」or「悪い報い」のいずれかをなさる、ということです。つまり、歩みの中で、正しいことには良いことを、そして正しくないことには、「悪い報い」をされる、ということを言われています。

 

 

 

そのことに関して、私(エレミヤ)の証(体験談)を話したいと思います。

 

 

 

私は、高校時代に東京都の練馬の教会で洗礼を受けました。そのことは感謝で、毎週礼拝に行っていました。しかしメッセージを聞いても恵まれなかったので、後ろのほうで本を読んでいました。そして先輩のクリスチャンにそのことで怒られていました。それはそうとしても、しかしどうしてだろう?なぜ恵まれないのだろうか?と疑問に思っていました。また、某基督教会も恵みが無い、と聞いています。ちなみに、某基督教会は戦時中、キリストを否定していたそうです。そういったことの報いが如実に来ている、ということが、ある時、分かったのです。そして私が行っていた教会も、どうもそうだったらしい、ということが分かりました。ゆえにメッセージを聞いていて「力」が出る、ということは無かったのです。ちなみに聖書には「離縁された教会」がある、ということについて書かれています。そして「離縁された教会」とは、たとえとして、キリストに見放された教会のことを言われています。某基督教会では「奇跡」や「復活」を否定しているそうです。しかも「同性愛」を容認しているそうです。それはかつて戦時中にキリストを否定したから、と思われるのです。そして神さまに「恵まれる道をお開きください」と祈りました。すると・・・しばらくしてから祈りが聞かれました。同じ駅の反対側の出口の教会に導かれ、恵まれました。同じ「教会」と名が付いていても、こんなにも違うものなのか?と思うほどでした。そこの教会は「ホーリネス系」の教会で、戦時中キリストを否定しませんでした。初代牧師がキリストを信じるゆえに逮捕されて一年くらい牢に入れられていたとのことです。キリストに忠実のゆえに恵みが来て、聖霊の働き(神さまの恩恵)がある、ということを理解しました。そしてこのことは、まさに上記4節のみことばの成就だと思いました。キリストを裏切るような教会は、聖霊の働き(神さまの恩恵)が消えてしまうのだなぁ、と思いました。しかし一方、忠実だと恵みがある、ということを悟りました。

 

 

 

ですので、ポイントとしては・・・あらゆる事柄に神が働いている、ということです。起きているあらゆることは、神と無縁ではない、ということです。ゆえに私たちは、忠実に歩んでいきたいと思います。

 

 

 

以上、エレミヤ牧師によるメッセージですが、イエス・キリストが王であること、そして、「王」はどういうことをなされるのか?ということに関して、多少なりともご理解いただけましたら、幸いに思います。