聖書箇所 マルコの福音書2:23

 

2:23 ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。

 

「『安息日』について」というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。

 

ここでは、イエスさまと弟子たちが安息日に麦畑の中を通られたこと、そして弟子たちが道々穂を摘み始めたことについて言われています。そして今回は、「安息日」ということについて、神さまがこのようなことを語っているのでは?ということについて話をさせていただきたいと思います。そのことに関して、この度は、今年の3月号のニュースレターに掲載されました証(テーマ:安息日)を紹介させていただきたいと思いますので、よろしければお読みください。

 

クリスチャン生活を送るようになり大分時が経ち、最近になって私なりに悟りを得たことがありましたので証をしたいと思います。テーマに掲げましたが、「安息日」の意味合いに関して、です。かつてはあまり「安息日」ということをほとんど意識したことが無かったのですが、ただ洗礼を受けて間もない時に、今はこんな風に日曜日に礼拝に行っているけれど、もし何かの都合で日曜日に礼拝に行けなくなったらどうしよう?それに元々仕事とか家庭の事情で日曜日にどうしても教会に行けない人はどうするんだろう?そういう人は神さまにクリスチャンとして認められないのだろうか?あるいは救われないのだろうか?という疑問を持ったことがありました。つまり私の心の中で、「安息日」=「日曜日」だと思っていたのでした。なので極端な言い方をすると、日曜日に礼拝に参加できない人は安息日を破っているのでは?なんていう考えが無くもありませんでした。でも、ここ数年前から、それは自分の勘違いが大いにあるのでは?と思うようになり、「安息日」の本来の意味合いについて少しずつ祈り求めていくようになりました。

 

ところで今私が通っているレムナントキリスト教会では、聖書のことばを文字通り理解することにプラスして、裏の意味合い、すなわちたとえの意味合いをも理解しています。そして「安息日」に関しても、多少なりともたとえの意味合いが使われていて、そのことを理解することによって、本来の意味合いを少しずつ悟るようになっていきました。せっかくですので、聖書箇所を見てみましょう。

 

〔聖書箇所〕レビ記23:3

23:3 六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。

 

ここで「七日目」ということばがあり、そのあとに「安息」ということばが書かれています。このことを文字通りに理解するなら、一週間の七日目=日曜日、ということになります。たしかにそれも正しいのでしょう。しかしそれに続いて、「いっさいの仕事をしてはならない」とあります。このことばを以前はそのまま文字通りにとらえていました。日曜出勤は絶対にダメだと。そればかりではなく、家事もしてはならないと思っていました。でも、それと同時に、果たして神さまは本当にそのように語っているのか?という疑問もありました。たしかに表の意味合いとしては、一週間の七日目、ということは言えます。そしてそれに関して、あるみことばを思い浮かべました。第二ペテロの手紙のことばです。そこには、「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」(第二ペテロの手紙3章8節)ということが書かれています。それを読んだ時に、「一日」を「千年」と言っていることに、思わず目が留まりました。このことから「七日目」とは、神さまが天地を創造されてから6,000年を経て、7,000年目のことを言われているということを理解しました。簡単に説明すると、BCの初めから終わりが4,000年間、ADから数えると2,000年以上の時が流れているので、それらを合算すると、今がまさしく7,000年目、すなわち「七日目」ということになります。さらに「安息日」と「仕事」との関わりについてのみことばをいくつか見てみたいと思います。

 

参照 出エジプト記31:15,民数記19:12

31:15 六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。

19:12 その者は三日目と七日目に、汚れをきよめる水で罪の身をきよめ、きよくならなければならない。三日目と七日目に罪の身をきよめないなら、きよくなることはできない。

 

上記にて、「安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺さなければならない」とあります。これもまた、「ええっ?!日曜日に働いたら殺されてしまうの?料理をしたり、掃除をしたりするのもダメなの?一家のご主人や主婦の人は大変だ!」と思ったこともありました。でも、のちになって、それは「たとえ」で書かれていることを理解しました。そのきっかけとなったのが民数記のみことばです。「三日目」はADから数えて3,000年目になるので、つまり「七日目」と同じことを言われています。それは今の時代のことであります。そして「七日目」すなわち「安息日」にしなければならないことについて書かれています。「汚れをきよめる水で罪の身をきよめる」ことです。「罪は毎日悔い改めているから大丈夫」と言われるかもしれません。もちろんそれも大事なことです。しかしここで言われている「罪」とは、単に個人の罪のことだけではなく、キリスト教会の教理のことをも言われていると思います。どういうことか?と言うと、「七日目」において、みことばへの冒涜が起きるということを12節のみことばでは暗示しているのです。いくつかの例を挙げるなら、地獄は無いとかクリスチャンは艱難には会わずに携挙されるとか、煉獄がある、などの教えです。こういった教理は、「六日間は仕事をしてもよい」とあるように、六日目までは、ほぼ語られていなかったのです。しかし七日目になると、六日目までの正統な教理が、おかしな教理に変質しますよ!ゆえに汚れをきよめる水(聖霊のたとえ)で罪をきよめましょう!ということを言われているのです。それゆえに六日目まで伝承された正しい教理を曲げる者、すなわちそれ以外の教理を語る者、そう、みことばに書かれているように、仕事をする者は、「だれでも必ず殺される」ということが言われているのです。これってどうでしょう?天の御国を受け継ぐでしょうか?いや、恐らく無理だと思います。

 

色々と説明が長くなりましたが、「安息日」とは、ひとつは文字通り「日曜日」ということもあるかもしれませんが、しかし聖書のみことばのたとえの意味合いを通して、それはまさしく今の終末の時代のことを言われている、ということを遅ればせながら悟ることができました。そして「安息日」とは、みことばの冒涜の時である、ということにおいても、現実のあらゆる状況を通しても、まさにその通りだということについても理解できました。それこそ世の中にすっかり広まってしまったダヴィンチコードもそのひとつだと思います。キリストはマグダラのマリヤと結婚して子どもがいた、なんてことは聖書のどこを探しても見当らないのですが、そのようなことが書かれているそうです。それって、まさに聖書のことばへの冒涜だと思います。でも、そのようなものを鵜呑みにしていたり、はたまたそんなことを広げてしまったりしたら、死後ろくでもないことになってしまうので気を付けていきたいと思います。

 

今回は長年にわたって疑問に思っていた「安息日」のことを私なりに氷解した点について述べさせていただきました。そして神さまが私の小さな疑問にこたえてくださったことに心から感謝して証とさせていただきたいと思います。いつも大事なことを教えてくださるイエスさまの御名が益々崇められますように。主に栄光を帰します。

 

以上です。