聖書箇所 マルコの福音書3:3135

 

3:31 さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。

3:32 大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、外であなたをたずねています。」と言った。

3:33 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」

3:34 そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。

3:35 神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

 

「イエスさまが言われる『兄弟姉妹、母』とは?」というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。

 

この世において、子どもがいない御夫婦や一人っ子は除いて、一般的に家族の中には兄とか姉とか弟とか妹がいますよね。それと同じように、クリスチャンが集う教会(神の家族)においても、「兄弟姉妹」ということが言われます。そして上記みことばは、キリスト教会における「兄弟姉妹」のことを言われております。この時、たしかにイエスさまの肉親の母(マリヤ)とか弟たちや妹たちがイエスさまのことをたずねてきました。けれどもそれに対して、「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」とイエスさまは返しました。今回は「兄弟姉妹、母」という点から、神さまがこのようなことを語っているのでは?ということについてお話させていただきたいと思います。

 

普通、私たちは、「兄弟姉妹、母」と聞くと、肉親のことをとっさに思い浮かべると思います。もちろんそれはこの世においてはごく当たり前のことですし、人によっては、実際に母とか兄とか弟とか姉とか妹はいらっしゃいますよね。しかしそれと同時に、たとえ血はつながっていなくても、聖書においては教会に集う人々、すなわちクリスチャンのことも「兄弟姉妹」という風に呼んでいます。そして聖書においてはこちらのほうにかなり比重を置いています。

 

そうです。たしかにイエス・キリストのことを信じるクリスチャンは、聖書の中で「兄弟姉妹」と呼ばれています。でも、ここで少し考えてみたいと思います。イエスさまは御自分の母や兄弟たちに対して、あっさりと「そうです。彼らは私の母であり、兄弟姉妹です。」とは言われませんでした。彼らに対して、「わたしの母とはだれのこと?兄弟たちとはだれのこと?」と言いました。血がつながっている母や兄弟に対してこのような対応をされたのです。当たっているかどうかは分かりませんが、このことを通して私自身は語りかけを受けました。「母」とか「兄弟」ということばですが、たしかにこのことは実際にイエスさまを産んだ母マリヤのことを、そしてその後生まれた弟や妹のことを言われているとは思います。しかしそれだけではなく、つまり、イエスさまの単なる肉親関係ということだけを言われているのではなく、イエス・キリストを救い主として受け入れて信じたクリスチャンのことをも言われていると思います。けれどもここで、イエスさまは兄弟姉妹に関して、明らかに区分を設けていることが理解出来ます。イエスさまから、「あなたはだれ?」と呼ばれるタイプのクリスチャンがいる、ということです。少しびっくりしませんでしょうか?あなたがイエスさまを信じるクリスチャンだとして、しかし、もし、目の前にイエスさまがおられて、そんな風に言われたらどうでしょうか?「あなたはいったいだれですか?」なんて言われたら、ショックですよね?けれども現実に、そのように言われてしまうクリスチャンがいる、ということをこれらの節は暗示していると思うのですが、いかがでしょうか?

 

しかし一方、そうではなく、イエスさまから、母とか兄弟とか姉妹と認められるクリスチャンもいます。その答えが35節に書かれています。「神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」とありますように、神さまの御心を行う人は、イエスさまから兄弟、姉妹、母と呼んでいただけるのです。これは当たっているかは分からないのですが、「神のみこころを行なう人」という表現から、たとえこの世の異邦人であっても、しかし、神さまの御心を行うなら、もしかするとイエスさまの前には、兄弟、姉妹、母と見なしていただけるのでは?と思います。英語訳も確認したのですが、この文の中に「クリスチャン」ということばが入っていなかったからです。また、ローマ人の手紙に以下のことが書かれています。

 

参照 ローマ人への手紙2:1014

2:10 栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。

2:11 神にはえこひいきなどはないからです。

2:12 律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。

2:13 それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。

2:14 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。

 

新約時代において、ユダヤ人とはクリスチャンのことを指し、ギリシヤ人とは異邦人(ノンクリスチャン)のことを指します。ゆえにこれらのみことばから、神さまの前に善を行う人こそが真のクリスチャンだという風に理解できませんでしょうか?また、一般的にクリスチャンは聖書を読むわけですが、13節にありますように、聖書のことばを知識として知っているだけではなく、そのことを実践する人が神さまの前には正しいとされます。裏返して言うなら、単に知識を知っているだけでは神さまの前にNGのようであります。けれども、たとえ律法を持たなくても、要は聖書のことばを知らない場合でも、その人自身が正しい良心に従って、良いと思うことを行っているなら、神さまには認められる、ということを14節では言われているように思うのですが、いかがでしょうか?神のみこころを行う人こそが真のクリスチャン、すなわち兄弟姉妹、母と言われるタイプのクリスチャンのように思えるのですが、いかがでしょうか?

 

話は少しズレてしまいましたが、要は御心を行う人、善を行う人、そういう人こそがイエスさまの前には兄弟とか姉妹とか母と呼んでいただけるクリスチャンだという風にご理解いただけましたでしょうか?そしてもし、本当にそのことを実践していらっしゃるのでしたら、イエスさまの兄弟姉妹、母になれるのです!これって素晴らしいことですよね?!そしてそのことを生涯にわたって全うされるのでしたら、恐らく天の御国にそのままは入れるのでは?と思います。反対に、「あなたはだれですか?」とイエスさまに言われてしまう場合にどうなってしまうのでしょうか?これも当たっているかは分かりませんが、そのことに関して以下のみことばが示されましたので、紹介したいと思います。

 

参照 マタイの福音書7:2123

7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』

7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

 

21節において、天の父の御心を行う人が御国に入る、ということが言われています。ここで言われている「御心を行なう者」ということばは、冒頭の35節の「神のみこころを行なう人」のことばと同じことを言われていると思うのですが、いかがでしょうか?そうなんです。ここでもやはり、御心を行う人にポイントがあることを言われていまして、つまり御心を行う人がイエスさまの兄弟姉妹、母であり、そしてそういう歩みをしている人に天の御国は約束されますよ~、ということを言われているのです。けれども、御心を行わなかった人に対しては、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」と言われています。私の見解ではありますが、「あなたがたを全然知らない」ということばと、冒頭の「わたしの母とか兄弟とは、だれのことですか」ということばはかなり類似していると思うのですが、気のせいでしょうか?そして御心を行わずに、反対に不法を行っていた人たちに対して、「わたしから離れて行け」ということを言われています。これっていかがでしょうか?天の御国を受け継ぐでしょうか?私個人においては、かなり厳しいのでは?と思います。

 

ですから結論としては、もし本当に天の御国に入りたいのなら、イエスさまの前に兄弟姉妹、母と呼ばれるタイプのクリスチャンになっていくことが必須なのでは?と言えると思います。そのためには神さまの御心を行っていくことが大事であります。

 

では、最後に、神さまの御心とはどんなことなのか?について簡単に説明したいと思います。それに関して、以下のみことばが示されましたので、よろしければ参考までに見てみましょう。

 

参照 ミカ書6:8

6:8 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

 

ここで、神さまが私たちに求めていることについて書かれています。「ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むこと」だと言われています。KJV訳も少し見てみたのですが、「公義」とは、物事を正しく判断する、というニュアンスがあります。つまり、善を善、悪を悪、とすることだと思います。「誠実」のところは、「慈悲、憐れみ」と訳されていました。ちなみに「慈悲」とは、苦しみ悩む者を憐れみ、慈しむという意味合いです。それこそイエスさまご自身は情け深く憐れみに満ちたお方でした。困っている人や弱っている人や苦しんでいる人のことに絶えず心を配り、必要な助けを与えたり、手を差し伸べていました。ですから私たちもそのことに倣っていきたいと思います。「へりくだって」のところは、「謙遜」と訳されていました。「謙遜」とは、「傲慢」の反対です。神さまの前に、どこまでも低い心でいることだと思います。そして、「主は何をあなたに求めておられるのか」とありますように、これらの事柄はまさに神さまの御心に通じていくものではないか?と思います。

 

ちなみにこういうことは、もしかするとクリスチャンがイメージしている神さまの御心とは随分違うかも知れません。かつての私も正直、神さまの御心とはどういうものなのか?についてあまり分かっていませんでした。でも、ある時、このみことばに触れた時に、もしかするとこういうことなのかな?と次第に思うようになりました。それまでは、神さまの御心というのは、毎週欠かさずに礼拝に行く、賛美をする、お祈りをする、奉仕をする、という風に思っていました。もちろんそれらも大事なことだと思うのですが、しかし、物事を正しく判断したり識別したりすることや特に弱っている人や苦しんでいる人や困っている人を憐れんだり、場合によっては出来る範囲で助けの手を差し伸べたりすることや、そして神さまの前に常に低い心でいる、ということは非常に大切なことなのでは?と思うようになりました。そしてそのことを本当に実践するのなら、イエスさまに兄弟姉妹、母と見なしていただけるのなら、素晴らしいことだと思いました。何と言っても、それは永遠の命や天の御国につながるからです。

 

今回は、「兄弟姉妹、母」ということばに着眼してお話させていただきましたが、主旨は概ねご理解いただけましたでしょうか?大きく言ってしまえば、また、人間的に、クリスチャンの名の付く人は、皆兄弟姉妹であることに違いは無いのですが・・・しかし神さまやイエスさまの前には、兄弟姉妹ということに関して明らかに区分がある、ということ、そして神さまの御心を行う人こそが、兄弟姉妹、母だという風にご理解いただけましたでしょうか?もし、そうかも知れないなぁ、なんて思われましたら、ぜひ神さまの御心をひたすら行っていきたいと思います。そして永遠の命に入っていきたいと思います。