聖書箇所 マルコの福音書5:3943

 

5:39 中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」

5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。

5:41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)

5:42 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。

5:43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。

 

「『眠り』ということばを通して語っていること」というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。

 

マルコの福音書5章全体は、人々の病やイエスさまの癒しのわざのことを主体に書かれています。上記の箇所もまさしくそれらのことを取り上げております。35節において会堂管理者は自分の娘が亡くなったという知らせを受けました。その時にイエスさまもその場に居合わせていましたので、ペテロとヤコブとヨハネをお連れてして会堂管理者の家に行きました。はじめは、「亡くなられた」と、つまり39節にありますように、「死んだ」という風に聞いていたのですが、しかしこの時イエスさまは、「子どもは死んだのではなく、眠っているのです。」と言われました。さて、今回は、「眠っている」の「眠り」ということばを通して、このようなことを神さまが言われているのでは?ということについてお話させていただきたいと思います。

 

上記の箇所を一読すると、イエスさまが眠っているひとりの少女を起こしに行き、そして彼女は起き上がって歩けるようになったと、それゆえに人々にあざ笑われたと、そのように読めます。「眠り」、すなわち「睡眠」は、私たちの日常生活の一部にも実際に組み込まれていますので・・・つまり「眠る」とは、ごく当たり前のことですので、おかしな話だなぁ、と思うのも無理は無いと思います。けれども今までも度々申し上げていますように、聖書は「羊皮紙」にもたとえられていて、表にも裏にも文字が書かれた書物であります。そして裏のこと、すなわちたとえとか奥義とかについても語られていますので、今回もそのことについて見ながらお話させていただきたいと思います。

 

まず、「眠り」とは、どのようなことを言われているのか?を別の箇所を参照しながら見ていきたいと思います。

 

参照 イザヤ書56:10

56:10 見張り人はみな、盲人で、知ることがない。彼らはみな、おしの犬で、ほえることもできない。夢を見て、横になり、眠りをむさぼっている。

 

ここで、「眠り」ということばが出てきます。そして、「眠り」ということばに関連して、「盲人」とか「知ることがない」とか「おし」ということばが使われています。これらのことばにおいて、たとえが使われています。「盲人」とは、霊的に正しく見ることが出来ない人のことです。「知らない」のところはKJV訳では、「無学」とか「無知」と訳されています。ちなみに「無知」ということばに関連して、以下のみことばがあります。

 

参照 Ⅱテモテへの手紙2:23,Ⅰペテロの手紙2:15

2:23 愚かで、無知な思弁を避けなさい。それが争いのもとであることは、あなたが知っているとおりです。

2:15 というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。

 

「愚かで、無知な思弁」とか「愚かな人々の無知の口を封じる」とありますように、「無知」ということばは、いずれも良い意味合いで使われていないことが理解できますよね?私の想像なので当たっているかどうかは分かりませんが、聖書のみことばを理解していないことを「無知」と呼んでいるのでは?と思います。

 

イザヤ書に戻ります。「おし」ということばですが、一般的に「おし」とは口のきけないことを言われていますが、「聖書」で言われている「おし」は、それだけではなく、神さまの御心について正しく語ることが出来ないことではないかと思います。分かりやすく言うなら、聖書のことばをまっすぐに解き明かすことが出来ない、ということを言われていると思います。また、「おし」に関連して、「おしの犬」ということが言われています。「犬」と聞くと、生き物を連想するかと思いますが、これもたとえの意味合いがあり、「犬」は「異邦人」のことを言われています。つまり、「おしの犬」とは、異邦人が語るようなことを話すメッセンジャーのたとえではないかと思います。さらに「ほえることもできない」ということが言われていますので、会衆を永遠の命へと導くためのメッセージを語ることの出来ないメッセンジャーのことを言われているのでは?と思います。

 

若干説明が長くなりましたが・・・「盲人」とか「知ることがない」とか「おし」ということばは、いずれも霊的なことに通じるのではないかと思います。そして「眠り」ということばがこれらのことばと関連することから、「眠り」も霊的なことを示していると思います。しかも良い意味合いではなく、悪い意味合いとして使われていると思います。そして、「眠り」とは、簡単に言えば、霊的に正しく見たり理解したり語ることが出来ない状態のことを示していると思います。さらに霊的に眠ってしまうときに、どういうことが起きるのか?についても見てみましょう。

 

参照 エレミヤ書51:39,57

51:39 彼らがいらだっているとき、わたしは彼らに宴会を開き、彼らを酔わせて踊らせ、永遠の眠りについて、目ざめないようにする。主の御告げ。

51:57 「わたしは、その首長たちや、知恵ある者、総督や長官、勇士たちを酔わせる。彼らは永遠の眠りについて、目ざめることはない。その名を万軍の主という王の御告げ。」

 

「永遠の眠り」とありますように、ここでも、「眠り」について言われています。そして「眠り」について、「酔わせて」とか「酔わせる」ということが書かれています。「酔う」ということばで多くの人が「お酒」を思い浮かべると思います。また、そのことばに関連して聖書では「ぶどう酒」ということばが使われています。このことにもたとえの意味合いがあります。「ぶどう酒」は霊的なことを指します。ゆえにここでも霊的な事柄を言われていると思います。そして「酔う」ということばですが、いずれも酔っ払うとは、良い意味合いではありませんよね?このことも絶対にそうです!なんて断言は出来ませんが・・・「酔う」とは何に酔うのか?と言うと、恐らく「惑わしの霊」に酔うことなのでは?と思うのです。つまり霊的に眠ることと、惑わしの霊はセットなのでは?と思うのです。そして、「わたしは彼らに宴会を開き、彼らを酔わせて踊らせ~主という王の御告げ」とありますように、「惑わしの霊」は神さまから送られてくる、ということが理解出来ますよね。また、「永遠の眠りについて目覚めさせないようにする。」ともありますように、「眠り」も神さまによって眠らされてしまう、ということが分かります。しかも、「目覚めさせないようにする」ともありますように、一旦神さまに眠らされてしまったら、私たちがどんなに頑張っても自力では起き上がれない、ということが理解できます。改めて考えると、これって恐ろしいことですよね?ですから私たちは神さまによって、眠らされることのないように気を付けていかなければいけません。

 

それでは、どんなタイプの人が神さまによって眠らされてしまうのか?ということについても見ていきましょう。

 

参照 詩篇76:5

76:5 剛胆な者らは略奪に会い、彼らは全く眠りこけました。勇士たちはだれも、手の施しようがありませんでした。

 

「剛胆な者らは略奪に会い、彼らは全く眠りこけました。」のことばが、ヒントになるのでは?と思います。ここで、剛胆な人が眠ってしまったことを言われています。つまり、もし私たちが神さまの前に、「剛胆」だという風に見なされてしまった場合に、霊的に眠らされてしまったり、惑わしの霊を送り込まれてしまうのではないかと思います。すでに皆さまはご存知だと思いますが、「剛胆」とは、「肝っ玉が太く、物事に動じない」という意味です。このことばは一見、悪いことのように思えないのですが、しかし「全く眠りこけました」ということが言われていますので、少なくともここでは良い意味合いでは使われていないと思います。そしてどんなことに動じないのか?と言うと、これも私の感覚で恐縮なのですが、神さまのことば、すなわちみことばに対してなのではないかと思います。分かりやすく言うなら、みことばに恐れを持たない、ということだと思います。なぜ、そう思うのか?と言うと、イザヤ書では、「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」(イザヤ書66章2節)ということが言われていまして、「おののく」ということばと「物事に動じない」とは、対称的な意味合いだからです。

 

そうです。もし、私たちが神さまのことばに動じない、みことばに恐れを持たない、というときに、神さまの手によって霊的に眠らされたり、惑わしの霊を送られてしまうのだと思います。ゆえに、そうならないために・・・どのみことばにも常に恐れをもっていきたいと思います。そうでないときに、霊的に眠らされたり、惑わしの霊を送られてしまう可能性があるからです。そして「永遠の眠り」とありますように、もし、眠った状態や惑わされた状態でクリスチャン生涯を終わらせてしまう、という場合に、永遠の命を得られない可能性もありますので、よくよく気を付けていきたいと思います。

 

では、最後に、万が一にも霊的に眠らされてしまったり、惑わしの霊を送られてしまったという場合にどうしたら良いのか?について、分かる範囲で話をさせていただきたいと思います。

 

先ほどもチラッと話しましたが、神さまの手によってそのような状態に陥ってしまった場合に、どんなに能力があっても、あるいは知識があったとしても、人の力ではそこから抜け出すことは無理、ということはひとつ念頭に置いておきたいと思います。では、どうするのか?そのヒントが冒頭のみことばにあります。

 

5:41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)

5:42 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。

 

41節でイエスさまは、「起きなさい。」と子どもに言いました。そして少女は起き上がることが出来ました。そうです。イエスさまに起こしてもらえば良いのです。万が一にも、霊的に眠ってしまっていたり、惑わしの霊にやられてしまっていたとしても、しかしイエスさまに憐れみや助けを求めていくときに、眠りから目覚めさせていただいたり、惑わしの霊から解放していただくことが出来るのです。ですからそういう状態だからといって、「もう、ダメだ~。」なんて落胆することのないようにしましょう。また、このことはレムナントキリスト教会の礼拝メッセージでも言われていることし、聖書にも書かれていることですが、そもそもイエスさまは私たちをさばくためや罪に定めるために来られたのではなく、罪を許して悔い改めさせるために来られたわけでありまして・・・そして聖霊さまもそのようなお方ですので・・・ですから、「もしかすると、自分は霊的に眠らされているかも知れない。惑わしの霊にやられているかも知れない」なんていうことを少しでも自覚するようなことがありましたら、ひたすらへりくだってイエスさまに起こしていただけるようにお願いしていきたいと思います。そうしていくなら、この少女のように起き上がることが出来るのです。そして、「歩き始めた。」とありますように、神さまが備えてくださっている永遠の命に至る道を再び歩んでいくことが可能となるのです。

 

ちなみにⅠテサロニケ人への手紙に、「眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。」とありますように、残念ながら世の終わりというのは、霊的に眠ったり、惑わしの霊に酔うような時代だということは正しく認識しておきたいと思います。レムナントキリスト教会の礼拝メッセージにおいても語られていることですが、「夜」は、まさに「終末」のことを言われているからです。ゆえに、私たちは霊的に眠りやすく、惑わしに入りやすい、ということを自覚して歩みをしていきたいと思います。そしてもし、「惑わされているかも。おかしな霊にやられているかも。」なんて思いましたら、すぐにイエスさまに助けを求めていきたいと思います。また、そのような時には、どのみことばにも恐れを持っているか?ということも、きちんとチェックしていきたいと思います。神さまには、私たちを眠らせる力や惑わす力もありますが、しかしその一方で、起こす力もお持ちですので、ぜひ、いつも御前にへりくだって歩みをしていきたいと思います。そして霊的に少しでも異変を感じたときには、すぐにイエスさまに憐れみや助けを求めていきたいと思います。特に終末の歩みにおいてはそのような繰り返しになっていくかと思いますが、そのあたりに関しましても正しく対応して、永遠の命を得ていく歩みを心がけていきたいと思います。