聖書箇所 マルコの福音書7:2023

 

7:20 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。

7:21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、

7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、

7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

 

「心をきよく保つ」というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。

 

上記のことばは、イエスさまがご自分の弟子たちに話されたことです。「人から出るもの、~内側から出て、人を汚すのです。」と。ちなみにこれらのことは誰のことを言っているのか?と言うと、この章のはじめのほうから読んでいくと分かるのですが、パリサイ人や律法学者のことを指しております。人前や見せかけはどうであれ、彼らパリサイ人や律法学者の心の中というのは、イエスさまの目には、「悪い考え」とか「不品行」とか「盗み」とか「殺人」等に満ちていました。すでに御存知かと思いますが、パリサイ人とか律法学者とはどういう立場の人たちなのか?と言うと、イエスさまが、「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。」と言われていますように、「モーセの座」を占めている人たちでした。モーセはかつて、十戒、すなわち神の律法を神の民に与えた人でした。そのように考えていくときに、彼らパリサイ人や律法学者たちも、神の律法、つまり聖書のことばに関係する人たち、そしてまた、そういう働きに携わっていた立場の人たちだという風に理解出来ます。具体的には、聖書のことばを用いて、啓示の解き明かしやメッセージをしていたのでしょう。

 

けれども、イエスさまは彼らのことをこのように見ていました。そしてそのことを弟子たちに話しました。私の想像なので当たっているかどうかは分かりませんが、主がこのように語った理由は、単に彼らの悪口を喋った、というより、ご自分の弟子たちに「あなたたちは彼らのようになってはいけませんよ!気を付けなさい。」と警告として注意を与えるためだったのでは?と思います。また、このことはひとつの型であるという風にもとらえられます。なぜか?と言うと、レムナントキリスト教会で繰り返し語っていることではありますが、主イエス・キリストの3年半の公生涯や旧約時代の末に起きた事柄は、私たち新約時代の終末にもオーバーラップするであろうと思われますし、予表でもある、と思うからです。そんな風に考えていくときに、こういった類いの人々、いわゆるパリサイ人や律法学者のような人々が出てくるということ、それにプラスして、終末の時代を生きるクリスチャンもそういったことに陥りやすいのでよくよく気を付けなさい!という主からの愛の警告なのでは?と私個人は理解させていただきました。そのようなことを踏まえて、神さまがこのようなことを語っているかなぁ、と思うことをわずかながらもお話させていただきたいと思います。

 

一般的に、特にこの世において、「心の内側」に関してはほとんど言われることはありません。ゼロとまでは言わないまでも、しかし「心をきれいにしましょう!」なんていう風に四六時中スローガンを掲げている、なんていうことは、ほぼ耳にすることは無いと思います。しかしながら、聖書においてはそうではありません。こと、神さまはそうなのです。私たちの内面的なもの、心の思いということを、とても大事にされているのです。しかもそれはこの世の神さまを知らないノンクリスチャンというより、クリスチャンに対して特に強調されています。なぜかと言うと、一般的に聖書を読むのはクリスチャンですし、上記のことばも弟子たちに言われているからです。そして、上記のような心になってしまうときにどうなるのか?ということをハッキリ言われています。「人を汚す」とありますように、その人自身もそうかも知れませんが、人さまのことまで汚してしまうのです。ゆえに、イエスさまがおっしゃったことに万が一もお心当たりがありましたら、すぐさま取り除いていきたいと思います。ちなみに21節で、「殺人」ということも言われていますが、このことばに関してどういうことを言われているか?参考までに他の箇所も見てみたいと思います。

 

参照 Ⅰヨハネの手紙3:15

3:15 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。

 

「殺人」と聞くと、肉体の殺人、いわゆるこの世で言う人殺しを真っ先に思い浮かべると思います。もちろんそういうこともNGだということは言われているのですが、しかし聖書においてはそれのみではありません。「兄弟を憎む者はみな、人殺し」とありますように、たとえ法的に殺人罪にならなくとも、しかし、兄弟、すなわちクリスチャンの兄弟姉妹を憎む、というときに、神さまの前にはそのことも「殺人」と見なされてしまうようです。しかも、「永遠のいのちがとどまることはない」とありますので、要注意であります。ですから、もし、万一、兄弟姉妹の誰かを憎んでいる、なんていうことに何らかお心あたりがありましたら、直ちにそれはやめましょう。そうでないと、永遠の命が危なくなってしまいますので・・・

 

こういったことから・・・思いのほか、私たちの心の内側がどういった状態なのか?というのはとても大事なのでは?と思います。そして誰かに憎しみを持ってしまう、というときに、あわや人をも汚してしまうのでは?と思いますので、そういった思いを抱いてしまうことのないように気を付けていきたいと思います。しかしやむを得ず、そして万が一にも、憎しみの思いに引っ張られてしまった場合には、すぐに祈って、聖霊さまに取り除いていただくようにしていきましょう。聖霊さまには私たちを罪から解放したり、きよめたりする力がありますので、信じて祈り求めていきたいと思います。そして、以下のことがお勧めされていますので、よろしければ見てみましょう。

 

参照 Ⅱペテロの手紙3:14

3:14 そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。

 

「しみも傷もない」とありますが、この所はKJV訳では、「非難することのない」「罪のない」「潔白な」とあります。そしてこのこともとても大事なことです。ピリピ人の手紙にも同じようなことが書かれていますので、そこも見てみましょう。

 

参照 ピリピ人への手紙2:15

2:15それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、

 

ここでも、「非難されるところのない」とあります。このことは、たった今見ましたⅡペテロの手紙と同じことを言われています。また、ピリピ人への手紙の箇所もKJV訳では、「非難することのない」「罪のない」「潔白な」とあります。ペテロの手紙と全く同じことを言われています。皆さまも御存知のように、ヘブル人への手紙には、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とありますが、私たちは死後、誰一人として例外なく、神さまの裁きの座に立ちます。その時に大事なことは、神さまの前に非難されることなく、罪の無い状態であること、そして潔白であることです。そのためにはどうすれば良いのでしょうか?そのヒントや答えが冒頭のみことばに書かれていると思います。イエスさまが言われた、「人を汚すもの」を内側に持たないことだと思います。「悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさ」等の悪と、距離を置くことではないかと思います。若干消極的に聞こえるかも知れませんが、しかし結構大事なことだと思います。そうですねぇ。もし、積極的な言い方をするなら、「御霊の実」を結ばせていく歩みに徹することだと思います。ちなみに、「悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさ」に関しては、ガラテヤ人への手紙にも同じようなことが書かれています。参考までに、よろしければ見てみてください。

 

参照 ガラテヤ人への手紙5:19-21

5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、

5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、

5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

 

マルコの福音書と同じようなことが書かれていますが、こういった悪い行いに関して、ここでは「肉の行ない」と言われています。さらに、21節では、「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」とあります。少し厳しいのですが、しかし聖書に書かれていることですので、耳にも目にも痛くとも、このことばは尊重していきたいと思います。それらのことばに続いて「御霊の実」について言われています。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」とあります。ですから、私たちが「御霊の実」を結ぶことに熱心になるのなら、19節~21節のことを回避することが可能なのでは?と思うのですが、いかがでしょうか?そうです。しかも単に悪い行いを避けられるだけではなく、御霊の実で満ちていくなら、心をきよく保てるのでは?と思います。そして生涯にわたって全うしていくなら、天の御国が約束されるのでは?と思います。

 

繰り返しますが・・・悪い思いや悪い行いからは、いつも離れていきたいと思います。そして御霊の実を結ばせていくことや良い行いにひたすら徹していく歩みを心がけていきたいと思います。特に世の終わりは、かつてのイエスさまの時と同様、「やみの力」が圧倒的に強くなっていくことを言われていますので・・・つまりクリスチャンであっても、悪い思いや悪い行いに簡単に引っ張られやすい時ですので・・・それゆえに御霊の実を結ばせることをかなり意識して行っていくようにしていきたいと思います。もし、そうかも知れないなぁ、なんてわずかでも思われましたら、ぜひ実践してみてください。いつも大事なことを語ってくださる神さまに心から感謝いたします。