聖書箇所 ヤコブの手紙1:12

 

1:12 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

 

「命の冠の条件」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

聖書の至る箇所において、永遠の命を得るための条件について書かれています。その1つの「試練」に耐える&耐え抜くことが御国を受け継ぐためには必須であることが本日の聖書箇所から分かります。すでにそういったことは今までのみことばを通して何度も繰り返し語っていることではありますが、再度、繰り返して語らせていただきたいと思います。また、昨今多くのクリスチャンやキリスト教会において天の御国はすでにゲットした!楽勝!楽勝!という教えや風潮がありますので御国への条件なんて言うと、「今更何を言っているの?」なんて言われそうですが、みことばの視点から話をさせていただきたいと思いますので、もし、大事だとわずかでも思われましたら耳を傾けてくださると幸いです。

 

さて、「条件」なんて言うと何かかしこまった感じを受けるかも知れませんが、この世においてもそういうことは言われます。たとえば時々こんな広告を目にすることがあります。「土地1,000万円」と書かれていて、それだけを見ると「すごいっ、安値!」と思うのですが、よーく読むと「建物を建てる」ことが条件と書かれています。要は、「土地だけでは販売はできませんよ、でも、もし家を建ててくれるのならこの価格で土地を提供しますよ」ということです。どこのご家庭のポストにも物件に関するチラシが定期的に入ってくると思うので、誰もが一度はこういう広告を目にしたことがあると思うのですが、思わず、「なぁーんだ」とガクッと肩を落とす方もいらっしゃるのでは?と思います。

 

世の中でもそんなにおいしい話なんてないように、じつは聖書に書かれている「永遠の命」も同じことが言えるんです。神様は愛なんだから、クリスチャンだったら何がなんでも永遠の命をもらえて当然!と、多くの方は言われるでしょう。かつての私もその一人でしたのでそういう気持ちもよく分かります。でも、聖書をまじめに読んでいくにつれて、また、通読の回数を重ねるにつれて決してそうではないということが分かりましたので話をしているのです。単刀直入に申し上げると、天の御国を受け継ぐことに関して、神様は私たちクリスチャンに条件を付けているのです。たしかに救いには条件は付きません。もし、付くとしても、主イエス・キリストが救い主でありご自分の主であることと死者の中から三日目によみがえったことを信じて受け入れて口でそのことを告白するということくらいです。そのことを行うだけで救われます。いわばクリスチャンとしての歩みをスタートさせることができます。しかし、いつまでもそれだけにとどまっていて良いか?と言うと、そうではないのです。私たちを永遠の命を導くべく唯一の書物である「聖書」に書かれていることを規範として歩んでいかなければいけないのです。もっと言うなら、イエス様とまったく同じではないにして、限りなくイエス様に近い者になっていかなければいけないのです。はじめからそうなることは無理ですが、最終的にはそうなっていくことを目指していかなければいけないのです。回りくどい言い方になりましたが、その1つとして、「試練」に耐えること&耐え抜くことが御国への条件だということをここでは言われているのです。裏返すとそうでないなら、残念ながら命の冠はゲットできないのです。もっと言うと、天の御国ではない所、いわゆる「火の池」に投じられる可能性があるのです。しかし、もし、本日のみことばに則して歩んでいくのなら、御国へのグッと近づいていくのです。

 

それでせっかくですので、「試練」に耐える&耐え抜くということについて話をしたいと思います。個々のクリスチャンにおいて、キリストを信じるがゆえの試練を大なり小なりすでに体験していると思います。もし、全く何も無いとおっしゃる方がいましたら、それは少し、いえ、大きな問題だと思います。失礼な言い方ではありますが、「本当にキリストを信じているのですか?」とお聞きしたくなります。クリスチャンとして歩んでいたら、人を通しての思索感情や肉体の苦痛等を通しての敵からの攻撃はある程度は神によって許されるのが当たり前だからです。そして、「試練」ということばは、KJV訳では、「キリストが悪魔から受けた荒野の試み」とあります。これはイエス様が荒野でサタンから試みに会った話にそのまま通じます。イエス様が荒野でサタンから試みられたことは有名な箇所なので御存知の方が多いと思います。イエス様はたしかにサタンによって試みに会われたのですが、しかしその前に「御霊に導かれて」ということが書かれています。

 

参照 マタイの福音書4:1

4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

 

そう、「試み」と言うと、私たちをいじめたり苦しめたりするためだけにサタンが単独で行っているように思えるのですが、それも多少はあるかも知れませんが、しかしそれだけではなく、それこそ「御霊に導かれて」と言われているように、神様の了承のもとにそれらの事柄は起こっているのです。「試み」とはいわば、神とサタンとの両者セットで行われるのです。たしかに神様は私たちのことを悪しき者から守ってくださるお方です。でも、私たちの本音を探るために定期的に試みられるお方でもありまして、もっと言うなら、この人は御国を受け継ぐのに本当にふさわしいか?のテストをなさるのです。その時に「サタン」を用いるのです。そういった概念をお持ちかどうか分かりませんが、サタンという存在は意味の無いものではなく、私たちを試みに会わせ、なおかつそれに勝利したら祝福がある、そういった流れの中に存在しているのです。サタンが祝福?と言うと、なんだか変な感じもしますが、試練や災いをもたらすサタンが祝福や恵みに入るきっかけにもなるのです。なおかつ主にあって勝利していくことによって霊的に強められたり、成長させていただけたりするのです。ゆえに「試練」に耐えて、なおかつ耐え抜いた人に、「命の冠」が与えられるのです。そして「耐え抜いて」の箇所はKJV訳では「試験済みの」と訳されています。要は試験をして、それに合格した人が「命の冠」をゲットできるのです。少し辛らつな言い方で恐縮ではありますが、いくら「私は熱心にイエス様を愛しています」と言っても、口先だけでは神様は信用なさらないのです。実際のところはどうなのか?を神様は知りたいのです。そのために「試練」を通して、試験をなされるのです。レムナントキリスト教会の礼拝メッセージでもこういったことは度々言われていることですが、エレミヤ牧師が例話として「学校でも、その人の能力を知るために定期的に試験をしますよね。その時にすべてが分かりますよね。普段勉強していない人は良い得点は取れません。でも、ちゃんと勉強している人は満点に近い点を取ります。そういう人は先生に誉められたりします。」ということを言われていましたが、信仰の面においても同じことが全く言えると思います。神様が試験をして、その都度パスしていく人と、神様は永遠の時を共に過ごしたいと思われていると思います。そう、永遠にいる人を、いわば永遠の時を共に過ごす人を主ご自身が試験して判断して決められることは正しいことだと、私もそういう風に思います。このこともエレミヤ牧師がおっしゃっていたことですが、「本当にこの人と永遠にやっていけるか?」ということを常々神様は観察されておられ、そのために私たちを試みられるのです。そしてそのことに何ら分け隔てはありません。すべてのクリスチャンに平等になされることなのです。なので、このことは正しく理解し、受け止めていきたいと思います。

 

では、最後に試練に耐えて、耐え抜くにはどうすれば良いのか?について話したいと思います。これは単に正しい理論を知っているとか正しい教理を持っているというもので通用するのではなく、実態を伴っていくものなので、何度も何度も繰り返し主からのレッスンを受ける必要があります。まず、その前に一言申し上げておかなければいけないことがあります。はじめに大なり小なり、どのクリスチャンにも試練が許されているということを言いました。そのことも一面の真理ではありますが、その中でも本当に主に従っていこう!御心を行っていこう!主に喜んでいただけることを行っていこう!悔い改めるべきところはちゃんと悔い改めよう!と、常日頃からそのような志で歩みをし、働きを担っている人、いわば永遠の御国の相続者に限りなく近い人に許されるという一面については、よくよくとらえていてください。少し厳しい言い方ではありますが、主のために働くつもりがなかったり御心を行うことにあまり真剣ではない人には、サタンを通しての試みが来ない可能性があります。絶対とは言いませんが、可能性はあります。そういう場合、「試みがないから私はちゃんと神に認められている。天の御国ゲット!」なんて能天気のことは考えないほうが良いと思います。何もかもが完璧で本当にそうなら良いのですが、罪も何もないイエス様でさえ試みに会われたのですから、まして、最後の最後まで試みの連続だったのですから、そんなことはまず、あり得ないと思っておいたほうが良いと思います。逆に本日のみことばにはっきりと書かれているように、試練に耐えて耐え抜いて良しとされた人に命の冠が与えられるとあるので、試練があって当たり前と思ったほうが良いと思います。そして、もし、何も試練がないのでしたら、今一度正しく歩んでいるかどうかを吟味されたほうがよいと思います。「試練」に会う以前の問題なんてことも十分あり得ますので・・・話はそれましたが、もし、試練が許された時には、いつも申し上げているようにひたすら主に助けを求めることです。みことばにも、耐えられない試練に会わせることはないとか耐えられるように試練と共に脱出の道も備えていてくださると書かれているので、ひたすら主に祈り求めていくことです。また、そのためには、忍耐も必須です。すぐに助けが来る場合もありますし、そうでない場合もあるからです。でも、みことばは真実ですので、もし、私たちが心から叫び求めていくのなら、必ず主の方法によって必要な助けや守りが与えられますので、ぜひ、そのことを実践していきたいと思います。正しく歩んでいるにもかかわらず、しかし、試練に会うのなら、神様の前に光栄なことだという点についても、きちんととらえておきたいと思います。また、時として失敗したとしても、あるいは同じ失敗を繰り返したり、思うようになかなか試練に勝利できなかったとしても、主にあってきちんと勝利できるように、祈って求めていきたいと思います。神様の前に正しく歩もうとしていたり、実際にそのように歩んでいる人には、この世において色々な試練や困難は許されますし、最後までそのことの連続かも知れませんが、それこそパウロがやがて得る栄冠に比べたら取るにたらないとも言われていることですので、ぜひ、試練に耐えて、耐え抜いて命の冠を得ていきたいと思います。また、艱難時代の特に後半の3年半はなおのこと、そのようなことが顕著に許されていくと思いますので、こういった点においても今から正しくとらえておいて訓練をしていきたいと思います。

 

自慢するわけではありませんが・・・曲がりなりにもなんとか主に仕えていこう!という風に志してから、神&サタンからの試みが定期的に許されるようになりました。挙げ出したらキリがないのですが、あらゆる欲に関する誘惑や試み、体に来る攻撃、人を通しての迫害や罵りや理不尽なこと等を通して試みが許されています。メッセージにも書きましたように、このことは現在進行形ですし、未来においても、そう、もし、私の勘違いでなければ、イエス様もそうであったように最後の最後までそのことの連続だということを霊の奥底において理解しながら歩みをし、働きをさせていただいています。最近、ある人を通して、自分自身の歩みや働きに対して面と向かってあしざまに言われました。もちろんそのバックにはサタンがいるのですが、あることないことまで一方的にまくしたてられて、はじめは少し言い返したりもしたのですが、そんな中で祈りに導かれて、その時の主の示しは「何も言わずに黙っていなさい」というものでした。さらに、脅しまがいなことも言われました。「主よ、どうしたらいいでしょうか?」と心の中で聞いたら、「黙っていなさい。そして私に助けを求めなさい」という語りかけを受けましたので、その通りに実行しました。ヒゼキヤではありませんが、「神様、とにかく助けてください」とひたすら祈りました。するとしばらくして、話がパタッと終わりました。その後、何事もなかったように、その人は私に普通に接してきました。台風が去ったかのように、あたかも悪い霊から突如として解放されたかのように、です。少しオーバーに聞こえるかも知れませんが、若干絶体絶命の危機とも思われる時があったのですが、主がすべてにおいて助けを与えてくださいました。この証を通して何を申し上げたいのか?と言うと、艱難時代においてもやはり敵が人を通して脅かしとか弾圧をかけてきたりすると思うのですが、その時に慌てたり、屈してしまったりすることなく、ひたすら主に助けを求めてみことばに従っていくことが大事だということです。今回のことにかぎらず、今までも幾度もこういったことが、いわば危機が私の身の上に許されたのですが、その時々において不思議な主の守りや助けや導きや力が与えられました。時には敗北に終わることもありましたが、真剣に祈り求めていく中で勝利を得ていくようになってものもあります。メッセージにも、また、証のはじめにも書いたように、これからも色々な試みが許されていくと思うのですが、その都度、神様に祈って助けを求めていきたいと思います。それこそダニエルの三人の友人が、ネブカデネザル王が作った金の像を拝まなかったために、火の炉に投げ込まれることになった時に、「私たちの神は必ず助けてくださいます。たとえそうでなくても金の像を拝みません」と言って、一歩も譲らずにみことばを優先して、結果として助け出されたように、そのことにほんのわずかでも倣っていけたらなぁと思います。本日も大切なポイントについて語ってくださった神様に栄光と誉れがありますように。